僕がバターになった理由 下

三日後、僕はユノに面談を申し込んだ。 敢えてVRChatの中を選び、彼の作った会議室のワールドで、インバイトリクエストを待った。 入り口にユノが現れ、明るい部屋を横切って、スクリーンの前にいる僕のもとへやってくる。 挨拶を交わす。ユノが先に、穏やかな声で言った。 「この前は、悪かった」 僕は胸の前で小さく手を振る。 「いや。ユノさんは正しいよ。僕のほうこそ、申し訳なかった」 二人とも、どちらからともなくその場に座った。僕はユノに尋ねる。 「まず、訊きたいことを先に訊いてもいいかい」 「いいよ」 「前に、何か言いかけてやめたことがあったよね。今の僕には重すぎるって。今、聞かせてもらえないかな」 ユノはああ、と漏らしてしばし沈黙する。思い出すのではなく、決心するための間だった。 「あのとき言おうとしていたのは、トワくんはウラタロさん目当てでここにいる。きつい言い方をすれば、ウラタロさんの背中を見てああなったんだ、ってことだった」 「そうか」 今となっては、自明のことだ。トワも手紙の中で、本気の僕だから話すと、打ち明けていた。彼がああなったのは僕のせいだと、責任を感じ、トワのケアに努めた。そうしてノクティスラの、進退の決断を迫られた現状がある。 もう、通り過ぎたことだ。トワは目立たないように、僕は誰も特別視しないように、頭上を通り過ぎる崩壊の影をやり過ごしている。 「あのとき言っておけばよかった。結果的にウラタロさんの重荷を増やした」 「ユノさんは悪くない。たぶんあのとき言われても、僕は止まれなかった」 ユノが微笑む。諦観を宿して、そうだね、と呟く。 「ウラタロさんは目の前の相手に寄り添う人だ。俺も結構それで救われた。だから、この話はこれで終わり」 ああ、ありがとう、と僕は床に視線を落とす。ユノが言った。 「他に、話したいことがあるんでしょ」 「ユノさんは容赦ないな」 僕はそれが嬉しくて笑う。ユノは僕の言葉を待った。 「ミサトさんの後任候補三人に、声をかけた」 うん、とユノが言う。低い響きを保ったまま、僕は続けた。 「一人は力不足、一人は多忙を理由に断った。最後の一人は条件付きで引き受けると言ってくれたけれど……」 「やめたの?」 「ああ」 誠実な接客担当の、丁寧に一線を引く口調が蘇る。 「彼は業務の属人化を避けたがっていた。代案として、部署を作って決定権を分散させるのはどうかとまで言ってくれた」 「正しい判断だと思う。ノクティスラの問題は、組織の構造から起きたことだ。個人の負担を減らさないことには楽しむ余裕も戻ってこない」 ユノの冷静な分析に、僕は自分の考えを言い添える。 「でも……それは現実的じゃない」 彼の視線に促され、僕は理由を口にした。 「部署を作るほどの人員がいない。メンバーは全部で二十人。アクティブメンバーはその半分だ。彼ら一人一人に幹部並みの働きを強いることはできない。経験値があるとはいえ、彼らはもともと接客を楽しむためにここに来たのだから」 「そうだね」 ユノは明瞭に肯定した。上を向き、声に出してため息を吐く。 「他のイベントに声をかけて、教育を手伝ってもらうのはありだと思うけど。それくらいの恩は売ったでしょ」 「ユノさん、この間はああ言ったのに」 「だって」 ユノは天井を見上げたまま言った。 「俺だって寂しいよ。ウラちゃんのイベントがなくなるの」 「ありがとう」 ありがとう、ユノさん。そう繰り返すと、彼は目の下を拭う動作をした。 「次の会議で、僕の意思を全員に伝える。意向は個別で伺って、続けたい人がいれば別のイベントへの移籍を提案する。話はつけておく」 用意していた段取りを述べる。ユノは晴れやかに言った。 「それでいいと思う。ま、余所じゃやらんって子もいると思うけどね」 トワくんとか。僕は内心胸がちくりとする。 「ウラタロさん、最後まであの子のこと、面倒見るんだよ」 「ユノさん、トワくんと仲良かったっけ」 ふと疑問を投げかけるが、軽やかな笑いで躱されてしまう。 「ユノさんは頑張ってる若者が大好きなんだよ」 物事に頓着しないように見えて面倒見のいいユノだから、本当のことかもしれない。 もっと早く、いろんな人に頼るべきだった。 「じゃあまた、会議で」 「時間を作ってくれてありがとう。またね」 ほぼ同時に、僕たちはインスタンスを退出した。するべきことはたくさんある。 僕はまず、ミサトに連絡した。
◇
ミサトとも、VRChatの中の会議室で話した。 これまでの経緯を理由として説明し、結論として、ノクティスラを畳むことを伝えた。 マニュアルをお蔵入りにしてしまうことに対する謝罪、判断が遅れたことに対する懺悔も。 話を聞き終えると、ミサトはすらりとしたアバターの腰を折って、視線の高さを合わせた。 「ご報告ありがとうございます。マニュアルのことは気になさらないでください。むしろウラタロさんのお悩みを増やしてしまっていたようで心苦しいです」 「とんでもない。僕が頼んだことだ。僕が優柔不断だったから、こうなった」 「言いっこなしですよ、ウラタロさん」 柔らかい口調だ。もしかして、マネージャーを降りることになって肩の荷が下りたのだろうか。 「難しいご決断だったと思います。会議については、ウラタロさんから告知されるのがいいでしょう。重要な話だと伝わりやすくなります」 「そうだね。いつもありがとう」 ミサトから言いよどむ気配がした。 「どうしたの?」 「いえ……ウラタロさんは、いつもお礼をおっしゃいますね。とても気持ちのいい方だと思っているのですが」 「ああ」 彼女がそんなことを言うのは初めてだったので、僕は聞くのが怖くなった。 「お世話になっているのはこちらなのに、と恐縮してしまいます。悪い気はいたしません。ただ」 ミサトの柔和なアバターの視線が、窓を通り抜けていく。 「大したものを返せない自身の至らなさを、省みるばかりでした」 僕は驚いて、なんと聞き返したらいいか分からなかった。ミサトの気持ちを否定することはできない。たった今、感謝されることが苦しかったと、打ち明けたばかりだ。 「僕のほうが、ミサトさんにもらってばかりだったと思っていたよ」 正直に言うと、彼女は微笑んだ。 「ありがとうございます。最後にそれが聞けて、安心しました」 もしかしたら僕は、多くのものを取りこぼしていたのかもしれない。 こんなに近くにいたミサトの本心にも気づかなかったのだ。完璧なマネージャーは自分の仕事に誇りを持っていると勝手に決めつけ、その苦しみに焦点を合わせなかった。 感謝が足りなかったわけではない。では、どうすればよかったのだろう? 「ミサトさん」 名前を呼ぶと、彼女のスカートがふわりと揺れ、振り返る。 「こんな機会は最後だろうから訊く。僕たちは、僕は、どうすればよかったと思う?」 「そうですね」 ミサトは少し考えたあと、丁寧に前置きして答えた。 「これは私の欲で、不可能だったことは承知しています。けれども、それを述べてもいいのならば、私はウラタロさんに表に立ち続けてほしかったです」 初期の開催日。僕がバックヤードから出た回。セピア色の思い出が点となり、繋がっていく。 「私だけではなく……少なくとも立ち上げメンバーは、ウラタロさんと一緒に何かしたくて、このイベントに入ったのですから」 それが、答えだった。 「ははは……」 「ウラタロさん?」 乾いた笑いを漏らす僕を、彼女は当惑して見つめた。僕は顔を覆い、感情に蓋をする。 「ごめん。似たようなことをユノさんにも言われてね」 「ああ……」 僕は咳払いをする。 「大丈夫だ。僕はここをノクティスラのまま、終わらせるよ」 ミサトは頷き、普段の声で約束した。 「最後まで伴走します」
◇
僕が二人で話したいと言ったときから、彼は僕が何を話すつもりでいたか、分かっていたのだと思う。 「こんばんは、ウラタロさん」 その声は朗らかで、かすかにうわずっていた。耳に青いピアスを付けて、ホールの入り口で、僕を待っていた。 「こんばんは、トワくん」 「少し、一緒に歩いてくれませんか」 奥の扉から、僕たちは外へ出る。弦楽器の演奏は消え、風の音に包まれる。ノクティスラの舞台は古い城だ。バルコニーから満天の星と、その下に横たわる深い海を見渡すことができる。 「こっちに行きましょう」 トワが、無骨な石の階段を下りていく。この先は砂浜だ。時折ワールドに興味を持ってくれた客を案内することがあった。客だけで来てもいいのだが、遠慮からかスタッフに声をかける客が多かった。 「以前ユノさんが細かく案内してくれたことがあって」 時々振り返りながら、トワが話す。僕は適当に、相づちを打った。 「教えてくれたんです。静かに過ごしたいときや秘密の話をしたいときなんかは、こっちに来るといいよって。……この先の洞窟が、お気に入りで」 僕はトワとともに、小さな洞窟に入った。砂の上に絨毯が敷かれ、隅に置かれたランタンが低い天井を照らす。正面には群青の波が、穏やかに打ち寄せていた。 「いつか、ウラタロさんと来てみたいと思ってたんです」 そうして目を細め、少年は、幸せそうに笑んだ。 「ノクティスラを解散する」 トワの動きが止まる。僕は決めていた台詞を言う。 「これ以上このイベントを続けることはできない。秋に最終回を行う」 感情を込めては、僕が壊れてしまう。動揺を隠すと、冷たさが残った。 え、とトワが漏らす。 波の音が高くなる。視界の端で光が揺れる。自分のものでなくなった声を聞く。 「トワくん、今まで本当にありがとう。君が望むなら、他のイベントへの紹介もできる。最終回はセレモニーを行うから、ぜひ参加してほしい」 トワの手が、自分の頭に伸ばされる。うめき声は聞こえなかった。彼は僕のほうを向くと、浅い呼吸で訊いた。 「どうしてですか?」 僕は心の水面を揺らさないよう、慎重に答える。 「イベントをやめる理由であれば、人員不足だ。ミサトさんもユノさんも辞める。新しい人を入れても教育できる人がいない」 「それなら、また僕が教えます」 間髪入れずにトワが言った。 「だめだよ、もう君に無理はさせたくない」 「でも!」 トワが叫ぶ。彼の答えは予想ができる。できてしまうことが嫌だった。 「ノクティスラがなくなるくらいなら、僕は壊れたっていいんです」 僕は一つ息を吸って、ゆっくりと言い聞かせる。本当のことなのに、祈りに聞こえた。 「トワくんは若い。将来がある。ここはね、みんなの気晴らしの場なんだよ。楽しく続けられなくなったら、終わりなんだ。だから、ノクティスラはここまでなんだよ。とても残念だけどね」 「ウラタロさんが?」 トワが低く、声を震わせた。自分でも気づいていないのだろう、僕ににじり寄る。 「ウラタロさんが、そんなことを言うんですか?」 「それは」 僕の言葉を遮って、彼は僕を責め立てた。 「ずっと本気だったでしょ。仕事で大変でも続けたでしょ。いろんな人を巻き込んでおいて」 「だから、僕が終わらせるんだ。これ以上みんなに付き合ってもらうわけにはいかない」 戻ってきた静寂を、波の音が埋める。残響が消えると、僕は静かに言った。 「イベントスタッフを続けたい人には、別のイベントを紹介する。それで勘弁してくれないか」 頭がくらくらとして、画面を見ていられない。目蓋で閉じた闇の中、トワのか細い声が聞こえた。 「僕は、ノクティスラがいいんです。ここじゃないと、だめなんです」 「どうして?」 少し遅れて問う。トワは迷わず答えた。 「ウラタロさんと、出会った場所だから」 僕は理解する。彼の中で、ノクティスラとウラタロは不可分の存在なのだ。 そして僕の色を分身に取り入れた彼自身さえも、この場所と地続きなのだ。 少なくとも彼はそう思っている。けれどもそれは間違いだ。 トワをしがらみから切り離せるのは僕だけだ。 君だけの足で、胸を張って、立ってほしいと。 僕は目を開くと、親しみを込めて彼の名前を呼んだ。 「トワくん、よく聞いて。……イベントが終わっても、僕たちは会えるよ。何もVRChatをやめるわけじゃない。今度はフレンドとして、前に二人で話していたときみたいに一緒に遊ぼう」 あの時間が、僕たちが何者でもなくても、仲良くなれることを証明してくれる。目的はなくとも会うのが友達だ。これからはそうすればいい。 「いやです」 しかし、トワはきっぱりと断った。心から疑わしげに、いっそ敵意を込めて、灰色の瞳で睨む。 「僕はただのトワに戻って、いったい何をウラタロさんに返せるって言うんですか?」 「別に、トワくんはトワくんだろう。ノクティスラはなくなるけど、友達だよ」 驚いて、素の声が出た。それで充分、説得できると思った。 しかしトワは俯いて言った。 「そんなの……ずっと続くわけない」 「君は……」 僕は、トワが何を求めているのか理解した。それは、誰にも与えることができない。この世界の何にも備わっていない。強いて言うならば、意志だけがそれを可能にする。 ユノは、トワの面倒を見ろ、と言った。けれども同じ口で、すべては変わっていくとも。 続けるなんて軽々しく言ったら、またトワを傷つける。 僕はどうすればいい。 「無理なんですよ」 トワがわらう。今にも泣き出しそうな、卑屈な声で。 「ウラタロさんと僕が、友達になるなんて」 「トワくん」 彼は勢いよく立ち上がったかと思うと、打って変わって頭を下げた。 「すいません! もう大丈夫なんで、気にしないでください」 「トワくん、僕は」 「わがまま言ってすいませんでした。最終回、僕参加しないんで」 歯切れよく言い、洞窟の外に出る。手元を操作して、移動するつもりなのだろう。 「待って」 呼び止めようとして、それを言う資格がないと口を噤んだ。 大波が打ち寄せる。星空を背に、がらんどうの微笑みが焼きついた。 「今までありがとうございました。お疲れっした!」 先ほどまで話していた少年のアバターが消える。静かな浜辺に、僕だけが立ちすくんでいる。 「……トワ」 行ってしまった。波音は心の火照りを奪い、先ほどの会話は夢だったのではないかと錯覚させる。 夢ではない。彼が放ったのは、突発的に出る言葉ではない。前々からトワは苦しんでいたのだ。何者でもないために、何も返せないこと。この場所にいるために身を粉にする彼に寄り添ってきたつもりだった。実際には何も、できていなかった。 いや、他人に対してそこまでの干渉ができるというのが思い違いだった。一度彼が救われたと言ったから、僕はもっと、彼を癒やせるのではないかと勘違いをした。 救われたいのは、僕のほうだったのだ。 もしかしたら、トワから連絡があるかもしれない。こちらからメールを送ってはプレッシャーになる。彼を待とう。会議。通常の、イベント開催。まだ時間はある。 けれども、いつまで経ってもトワから連絡はなかった。 静かな夜を重ね、ついに僕たちは会議の日を迎えた。
◇
会議室には、十六人が集まっていた。欠席者からは、その旨が伝えられていた。トワだけが、断りもなく席を空けていた。 スクリーンの前に立つ僕を、彼らが見つめている。それぞれのアバターの顔は、どこか緊張しているようにも、覚悟しているようにも見えた。 ノクティスラの解散を宣言し、その理由を順に述べる。人員が足りないこと。教育できる人がいないこと。ミサトが年内で降り、ユノもワールド制作担当を降りること。秋に最終回を行うこと。続けたい人には別のイベントを紹介すること。 みんながいるうちに、ノクティスラをノクティスラのまま終わらせたい。 それが最大の動機だった。 彼らは最後まで聞いていた。質問も、反対もなく、すでに決まったこととして受け入れられた。 「お疲れ様でした」 イベントの立ち上げからいる古参が言った。落ち着いた声には、深い労いが込められている。 「ありがとうございました」 「四年間、お世話になりました」 声がいくつも重なる。僕のほうが、泣いてしまいそうだった。 一人だけ、去年入った新人が、あの、と言って、そのまま黙った。僕は待った。 「……すみません。まだ、処理しきれなくて」 「いいんだよ。ありがとう」 彼はもう一度謝って、着席した。 話をミサトが引き継いで、今後の通常回、最終回のセレモニーについて説明した。 もう少しだけ、ノクティスラは続く。別れのための時間は用意されている。 もしかしたらトワは来るかもしれない。来ないかもしれない。少なくともこの場でイベントの功労者である青年について、触れる者はいなかった。 会議は三十分で終わった。いつもの半分だった。その後、何人かに励ましの言葉をかけられた。
個別の意向は、一人ずつ聞いた。 他イベントへの移籍を希望したスタッフは、二人だった。予想より少なかったが、希望しないスタッフの話を聞けば納得した。彼らもまた、ノクティスラだから接客をしていたのだ。ここで自分が築き上げたロールプレイのキャラクターを愛していた。しばらくはそのキャラクターを眠らせ、自分も休みたいということだった。 移籍希望のスタッフについて、相手のイベントに連絡を入れ、彼らの人柄と得意なことを伝え、日程を調整した。あらかじめ話をつけていたこともあり、断られることはなかった。ノクティスラのスタッフなら、という言い方が、嬉しくて、少し堪えた。 最終回に立つのは、十九人になった。ほぼ全員が、夢の古城に集う。 やることは他にもたくさんあった。告知の文面を書き、公式のアカウントで発表する。関わりのあったイベントにこれまでの感謝を伝える。撮影データの取り扱いを決める。素材の権利関係を整理する。ワールドを最終回のあとどうするかユノと相談する。 ミサト以外に、ユノと、平のスタッフにも手伝ってもらって進めた。全員に話を通さなければならないことが多かったというのもあるが、頼ることの重要さをようやく学んだ僕は、最後にそれを生かそうとした。スタッフはとても協力的で、作業は拍子抜けするほどスムーズに進んだ。口には出さない、彼らなりの名残惜しさの発露なのだと僕は考えた。 こうしていると、イベントを始めたばかりの頃を思い出す。あの頃は見知った顔同士で進める学祭の準備のような活気があり、達成感があった。今はそれを終わらせるためにやっている。手放すための準備が、最後に豪華なものを用意する高揚はありながら、指先の寂しさは拭えなかった。 クレハから連絡はなかった。 解散の告知は、彼のところにも届いているはずだ。彼のアカウントを見かけなくなって久しい。もしかしたら、届いていないのかもしれない。 彼も大切なメンバーの一人だった。連絡を取ろうかと考えて、やめた。今更何を言っても、言い訳になる。彼が求めていたものを、僕は最後まで理解しなかった。与えることができないのならば、二度と触れないことが、彼への礼儀だ。 トワからも、何も届かなかった。 ブロックはされていない。業務連絡をしたが、返事はない。ミサトとユノには軽く事情を説明した。彼らは納得した様子で、それ以上聞かなかった。 「様子だけ見てみたら? たぶんウラタロさんのことを嫌いになったわけじゃないよ」 ユノに言われ、僕は時折、トワに短いメッセージを送るようになった。 季節の挨拶をし、体調を気遣うメールを書く。イベントのことには触れなかった。返事を求めない、当たり障りのない文面。それでも、書いている間は、心が落ち着いた。 最終回の日取りは、十一月の第四土曜に決まった。 告知を打つと、久しぶりに反応が伸びた。行きます、と言ってくれる人が何人もいた。何年も見ていなかった名前もある。 僕はその一つ一つに、返事を書いた。 お待ちしています、と。
◇
ノクティスラの最終回、僕は接客のため表に立った。 オーナーとして客に直接感謝を伝えたかった。スタッフたちと同じ目線でホールを見たかった。誰も反対しないどころか、彼らは嬉しそうに、背中を押してくれた。 客は多かった。 開場して十分で、インスタンスは二つに分かれた。三つ目を立てるかどうか迷って、立てた。僕がその場で決めた。 客たちは目当てのスタッフとの別れを惜しみ、労いの言葉を他のスタッフにもかけた。僕のところにもやってきて、素敵なイベントを作ってくれてありがとう、と言った。わざわざアバターに花束を仕込んで渡してくれる人もいた。僕は久しぶりに被ったHMDでそれを受け取り、深く、深く頭を下げた。 常連と話を弾ませ、初めての人に今日は楽しんで、と伝える。ずっと来たかった、最後になって申し訳ない、と謝る人もいた。僕はもちろん、謝らないで、と返した。 たくさんの人と話した。けれども、今回は、忘れないでいようと思った。 胸を締めつける感情とともに、彼らの顔を、名前を、記憶に刻みつける。 楽しい。本当に楽しい。こんなに楽しいなら。 賑わいの合間、二度と訪れない夜への感傷に浸りながら、意識はいつかの夜に接続された。 三年前、僕が一度だけ表に立った日。 あの日も間違いなく楽しかった。けれども今日まで同じことをしなかった。 バックヤードを愛していることに嘘はない。そこにいることが向いているのも、真実だ。 もしかしたら僕は、怖かったのかもしれない。 自分が楽しんでは、返せるものも返せなくなる。受け取ってしまう側になる。楽しませるためにここにいるのに、その存在理由が、揺らぐようで怖かったのだ。 与えられるばかりの苦悩を、自分が覚えないよう避けていたのに、それを抱えている人たちを顧みることがなかった。 僕は、傲慢だったのだ。 インカムでユノが、閉場まで残り三十分を告げる。こんなときに気づくなんて。 僕は謝罪を込めてスタッフたちの横顔を見つめる。笑っている。客と手を叩いて、楽しそうに。 いや、まだできることがある。ずっと傍らにあった願いのために。 僕も交ざろう。一緒に笑おう。 黒いスカートの裾をなびかせて、僕は彼らのほうに歩いていった。
カウントダウンはしなかった。ミサトが「そういうのは、うちらしくないですよね」と言って、僕も同意した。 終わり際、僕が閉会の挨拶をして、紙吹雪とともに、ホールの扉が閉まる。 ありがとう、という声が方々から上がり、僕は手を振ってそれに応えた。 客たちはしばらく扉の外にいたが、それぞれのタイミングで落ちていき、やがてワールドは静かになった。 スタッフだけのインスタンスに、十九人が残った。 誰かが泣いていた。ユノが黙って隣にいた。ミサトは最後の集合写真の設定をしていた。 今日開場するまで、僕はノクティスラを始めたときと同じ台詞をなぞるつもりでいた。 このイベントの主役はスタッフとお客様だ。僕は何もしていない。みんなのおかげで、ここまで来られた。 今は違う。この二時間が、それでは足りないのだと気づかせた。 「今日、ここに立てて、本当に楽しかった」 僕を見つめる顔が、頷き、輝く。 「四年間、僕はノクティスラができて楽しかった。ありがとう」 ありがとう。ありがとう、ウラタロさん。 集合写真を撮った。全員が思い思いのポーズをする中、僕は真ん中に立たされた。その場所が、今はとてもしっくりきていた。別れを惜しむように、何度もシャッターが切られた。 全員を入り口で見送ったあと、僕はホールに戻った。 星の灯るランタンをしばし見上げ、それから、奥の扉から出て階段を下りていった。 風の音。林が揺れて木の葉が擦れる。幻の潮の香りを嗅ぐ。 砂浜に下りると、洞窟に向かった。ランタンの明かりが、絨毯の模様を浮き上がらせている。誰も座っていない。 僕はそこに身を横たえて、目を閉じた。 青いピアスを付けた少年が見つけてくれることを願いながら、眠りに就く。 そんな朝は、僕らには訪れなかった。 ◇
ただのユーザーに戻るつもりだった。 戻れると思っていた。最終回のあの夜、僕は久しぶりに人と交ざって話をした。楽しいと、口に出して言えた。それができたのだから、あとは昔のように、適当なPublicに入って、知らない人と喋って、笑ってログアウトすればいい。 四年前の僕は、それで満たされていたのだから。 初めて入るインスタンスで、僕は名乗る。 「あ、もしかして、あの」 相手はイベントの名前を出す。悪気はない。むしろ好意だ。 「行きたかったんですけど、間に合わなくて」 「復活の予定とかないんですか?」 僕は笑みを貼りつけて、ありがとうございます、と答える。それから、いろいろありまして、と言う。会話はそこで一区切りつき、次の話題に移る頃には、僕はもう「ノクティスラの人」になっている。 世間の話題一つ、趣味の話一つとっても、彼らから一目置かれている、感覚がする。 僕がこの世界を好きになった理由は、初対面の相手と、何者でもないまま話せることだった。ここでは誰も、昼の僕を知らない。数字も、ノルマも、名刺も持ち込まなくていい。それが嬉しくて、毎晩入り浸っていた。 現在では、名乗るたびに、肩書きがつく。 終わったイベントの、終わったオーナーという肩書きが。 最終回に覚えたことが、何一つ使えなかった。交ざろうにも、僕が近づくと、その場が少しだけ姿勢を正す。
古いフレンドに声をかけた。四年前、毎晩のように顔を合わせていた相手だ。 近況を尋ねると、彼はまずイベントお疲れ様でした、と言った。それから、大変だったでしょう、と続けた。 他意はない。親切で品のいい会話だ。けれども労いは、こちらから何かを差し出す隙をくれない。 三十分ほど話して、また今度、と挨拶して別れた。また今度は来なかった。 フレンドリストを開く。オレンジステータスが増えた。灰色も増えた。四年の間に、僕は千人近い名前を集めていた。そのほとんどが、イベントを介して繋がった人たちだ。イベントがなくなれば、繋がっている理由もなくなる。 そんなの、ずっと続くわけない。 トワの言ったとおりだった。彼は自分のことを指して言ったが、当てはまっているのは僕のほうだった。 彼らが悪いのではない。僕が、イベントの外側で誰とも関係を作ってこなかったからだ。 忙しかったと、言い訳をするのはたやすい。けれども他のイベントスタッフたちは、それぞれのフレンドのところで遊んでいる。帰る場所がある。ミサトやユノでさえ、時折VRChatに入っている。 けれども元メンバーに会えば、またノクティスラの話をしてしまう。 四年間、僕は全員を見ていた。全員に声をかけ、全員を平等に扱い、誰も特別扱いしなかった。 平等に扱うということは、誰とも二人きりにならないということだ。 一度だけ、例外を作った。その一度が記事になり、その一人は、もういない。 トワのアカウントは残っている。ステータスは、ずっと灰色のままだ。 僕は季節の挨拶を送り続けた。年が明けても、桜が散っても、返事はなかった。彼とのチャットが僕からのメール以外で動くことはない。 もう、そこに彼はいないのだろうか。 そう思ったとき、僕は筆を執るのをやめた。
ホームワールドにログインして、鏡の前に立つ。メニューを開き、行き先を選ぶ。 確かめる前から、それが無駄な行為だと分かっていた。みんなイベントに参加中か、別の界隈にいるかだ。プライベートワールドにいるユーザーはずらりと並ぶ。今夜も僕の居場所はない。 メニューを閉じ、ため息を吐く。誰かの視線を感じ、正面を向く。 鏡の中で、たおやかな女性のアバターが微笑みを浮かべている。 はて、これは誰だろう、と僕は思った。イベントの告知画像の隅にいつも載っていたイラストのキャラクター。絵の得意なスタッフが描いてくれた、ノクティスラの看板娘。 僕が片手を上げると、鏡の中で彼女が、同じ動作をする。 そう。これはオーナー、ウラタロのアバターだ。トレードマークの青い髪飾り。 切りそろえられた黒髪、黒いワンピース、白い襟と袖、丸いパンプス。僕の好きな要素が詰まった分身。僕が僕だけのために改変した、夜の顔。色を変えるのにも、アイテム一つ付けるのにも、大変な手間と時間をかけた。愛着が湧き、この四年間ずっと使っていた。この世界で僕がコミュニケーションを取る助けになってくれた。 けれども今は、ただの記号だ。それどころか、僕をかつての役割に縛り続ける錨だ。 僕は腕を振り下ろし、彼女を睨みつける。 ノクティスラを知る者たちに、僕はこの姿で記憶されている。この姿でいる限り、僕はあのイベントの人だ。鏡の中の彼女は、とっくに僕のものではない。 ノクティスラが終わり、バックヤードは消え、スタッフたちは散っていった。僕の愛した砂場はなくなり、指示役はその任を解かれた。 今度はプレイヤーとして、別の砂場で遊べる。そう思った。最後の三十分、僕はそれができたのだから。 けれども他のプレイヤーたちは、僕をかつての指示役と認識する。役割は名前の代わりになり、いつの間にか一人歩きして、僕が話す前にその場所での僕の振る舞いを定義する。 僕は四肢から力が抜けて座り込んだ。 鏡の中の彼女も、膝を折って、同じように座る。青い髪飾りが涙のように揺れた。 あの子は今、どうしているのだろう。耳に付けた青いピアスは、外してしまっただろうか。 外しただろう。僕はもう、ノクティスラのオーナーではない。僕の色を、真似る理由がない。 そうか。トワと僕は、僕がノクティスラをやっていなければ出会うことがなかった。 君は何も返せないと言った。僕がただのウラタロであれば、君は興味も惹かれなかったはずなのに。 疲れたサラリーマンに。僕の持っている技術も、知識も、ありふれたものだ。 砂場での役割と姿のために、とんだ思い違いをさせてしまった。 そして今も、僕はそれで周囲を欺き続けている。 本当は何者かになんて、なりたくなかった。 願わくば、この錨を外して。あの古城に、思い出とともに埋葬して。 僕を、かつてのような何者でもない僕に戻してください。
メニューを開いた。アバターの項目を開き、パブリックアバター一覧を表示する。 誰でも使える、どこにでもある、誰のものでもない姿が並んでいる。動物、ロボット、丸い塊。名前も知らないものばかりだ。 その中に、黄色い顔をした、緑の包装紙にくるまれた一体があった。 バターだ。 生き物ですらない、名前からして冗談みたいなそのアバターは、以前から見かけていた。この姿をしていれば、どこの誰かなど、興味を持たれることはないだろう。 僕はそれを選んだ。 鏡の中で、彼女が消える。読み込みの数秒ののち、同じ場所に人間大のバターが立っていた。 それに僕と結びつく要素はない。表情はただ、笑っているだけ。針金の先の小さな手を、開いて、閉じた。 悪くない。 これなら誰も、僕を見つけられない。 頭の上を見なければ。 ネームプレートは、変わらずそこに表示される。相手がユーザーインターフェースをいじらない限りは、消すことができない。この世界の仕様だ。 ひとまずはこれでいい。 ウラタロという名前を、捨ててしまおうかとも考えた。けれども突然いなくなってしまうのは、これまで縁を繋いでくれた人々に対する不義理に感じて、やめた。 突然いなくなられる悲しみは、痛いほどよく知っているから。 代わりに、ステータスをオレンジにした。 ウラタロに会いに来る人間がいなくなるように。 誰にも見つからない場所にいれば、安らぎだけは守れると、信じていた。
◇
この世界でバターの姿をとるようになり、半年が過ぎた。 僕はまだVRChatにいる。週に一度か二度、仕事が早く終わった夜にログインして、人の少ないワールドを選ぶ。行き先はいつも適当だ。隅のほうに座って、周囲の話を聞いて、何も言わずにログアウトする。 声はほとんど出さない。出せば、誰かが頭の上を見るかもしれない。 バターは楽だった。この姿を着ている人は他に何人もいて、みんな同じ顔をしている。誰が僕を見ても、そこにいるのはバターであって、僕ではない。 半年の間、僕に声をかけた人はいなかった。 当たり前だ。話しかけたくなるような姿ではない。冗談みたいなアバターで、隅で黙って座っている人間に、用のある人はいない。 それでよかった。孤独を選んだのは僕自身だ。 トワが最後にログインした日が、遠ざかっていく。
その夜も、人の少ないインスタンスに入った。 素朴な造りの、夜の公園のワールドだった。生け垣に囲まれ、遊具と、街灯が一本立っている。三人いて、みんな別々の場所にいた。 僕は街灯の近くの椅子に座った。 座って、光を見ていた。暖色の明かりが、呼吸するように大きくなったり小さくなったりする。微妙な変化だが、不思議と見飽きなかった。 どのくらいそうしていたか分からない。 そろそろ移動しようかと腰を浮かせたとき、砂を踏む足音がした。 街灯とは反対の方向に、人影が立っていた。若い男性のアバターで、見覚えはなかった。ネームプレートを読もうとして、やめた。読めば、向こうも僕のを見る。 「こんばんは」 その人が言った。ボイスチェンジャーを噛ませている。 「こんばんは」 久しぶりに出した声は、掠れていた。ミュートにして咳払いをする。 その人は、隣にある椅子の端に手を掛け、迷うようなそぶりを見せたあと、言った。 「一人ですか」 僕は動けなかった。 その言葉を知っている。似た場所で幾度となく同じ言葉をかけてきた、あの日々を覚えている。 明かりの下にいた、あの子のことを。 「はい」 僕が答えると、彼はほっとしたように声をほころばせた。 「隣、いいですか」 「どうぞ」 小さな手を差し出した先で、彼が座る。端正なフルボディトラッキングが、彼のリラックスした姿勢を反映する。 「そのアバター、久しぶりに見ました」 しばらくして、彼が言った。聞き取りやすい話し方だ。 「よく着てる人、いるでしょう」 「いますね。でも、ちゃんと座ってる人は初めてです」 僕も、つられて笑った。笑ってもよかったのだと気づいた。 二人並んで話すのは、このワールドのことだ。手の込んだワールドが増えたが、ボクセルでできた場所は過ごしやすいこと。ここは見た目の他に音に凝っていて、虫の鳴き声や足音がするところが気に入っていること。 イベントの話も、お互い何をしているのかという話もしなかった。聞かれたら答えようかとも思っていたが、彼は一度も触れなかった。僕も聞かなかった。話をするのは心地よく、訪れた沈黙さえ苦ではなかった。 「最近、何かありました?」 彼が、こちらに顔を向けて尋ねた。世間話の常套句だが、僕はその質問に素直に答えた。 「本を、一冊読み終えました」 表紙に少女が描かれた文庫本は、栞を抜かれ本棚に収まっている。トワと話す機会がなくなってそのままにしていたものを、先月掃除のついでに取り出して、一気に読んだ。今この瞬間まで、誰にも話さずにいた。 「どんな本ですか」 僕は彼の反応を見ながらあらすじを話し、気に入った場面について語った。なぜその場面を気に入ったかを説明するうちに、昔聴いた音楽の話になり、学生の頃の思い出に繋がった。 順番はめちゃくちゃだった。 途中で、これは僕の話だ、と気づいた。本の話に見せかけて、自分の話をしている。仕事のこと、疲れていること、長く続けたものを終わらせたこと。固有名詞は一度も出さなかったのに、全部打ち明けていた。 彼は一度も遮らなかった。正確に相づちを打ち、的確に質問を挟んだ。それが技術だと分かっていても、会話から抜け出せなかった。 四年間、僕は弱音を吐かなかった。吐いたら他の人が背負ってしまうからだ。そうして、誰にも何も渡さないまま、全部一人で抱えていた。 抱えていたものは、案外、大したものではなかった。 言葉にすると、ずいぶん短い。 僕はこの人に何も返していない。この人も、僕から何も受け取っていない。 それでも、この時間は成り立っている。 そんなの、ずっと続くわけない。 トワの声が、耳の奥で鳴る。 続かなくていいのだと、僕は答えた。 話し終えたとき、どのくらい経っていたかは分からない。 おそらく、二十分くらいだったと思う。 「すみません、長々と」 「いえ」 彼は長い髪を揺らして首を振った。 「面白かったです」 僕は彼をまっすぐに見つめる。街灯の光が、彼の輪郭を縁取っていた。 「そろそろ落ちます」 座ったときと同じ滑らかさで、彼は立ち上がる。 「今日は、ありがとうございました」 「こちらこそ。また聞かせてください」 言ってから、自分の発言のおかしさに気づいた。話していたのは僕のほうだ。 彼は黙ったまま、深く頭を下げた。 そのとき、見慣れた色が光彩を放った。 公園を横切っていく彼を、呼び止めようとして、僕は口を開いた。