僕がバターになった理由 中

僕は一度スマートフォンを置き、眉間を揉んだ。ワイシャツの襟が首に張りつき、肩が凝っている。 それでも、精神的なショックを前に、それらはほぼ意識されなかった。 トワの声が、アバターの向こうに浮かべていたはずの表情が、部屋を漂い、僕に訴えかけてくるかのようだ。 最後までそれに、耳を傾けなければならない。 僕は再びスマートフォンを手に取り、メッセージの続きを読み始めた。
◇
壁際がいちばん効率がいい、というのは店で覚えたことだ。 自分から輪に入る労力が要らず、それでいて放っておかれることもない。こういう場所には必ず、一人でいる客に声をかけて回る人間がいる。待っていれば向こうから来る。声をかけてもらったという形から始めれば、こちらが下手に出る手間も省ける。 指名のつかない日、僕はいつも壁際にいた。ここでも同じことをするだけだ。 ワールドは、思っていたよりも静かだった。 動画ではもっと派手な場所に見えたのに、実際は照明が落としてあり、客もスタッフも声を張らない。低い音楽と、あちこちの会話が混ざって、アーチ型の天井に吸い込まれていく。ランタンの下に立つ僕の足元に、暖色の光が溜まっていた。 金を持っていそうなのはどれだろう、と僕は視線を動かす。改変されたアバターを着ている人。装飾の多い人。誰かに囲まれている人。目星をつけ、声をかける順番を組み立てる。 あのとき誰にも見つからなければ、僕はたぶん、予定どおりのことをしていただろう。 「こんばんは」 声をかけてきたのは、黒いワンピースの女性アバターだった。 袖口と襟が白く、頭には澄んだ青色の髪飾りを付けている。特別に手の込んだ改変には見えない。ただその青色が、暗い店内で一瞬僕の意識を縫い止めた。 「お一人ですか」 「はい。初めて来ました」 「ようこそ。ゆっくりしていってくださいね」 僕は口を開く。ここからは手順がある。相手を褒め、自分を小さく見せ、相手に喋らせる。喋った分だけ人はその相手を好きになる、というのが店で教わったことだった。 「すごく綺麗なワールドですね。細かいところまで作り込まれていて」 「ありがとうございます。作ったスタッフが聞いたら喜びます」 「僕、こういう雰囲気大好きです。その方がデザインされたんですか?」 「デザインをしたのはオーナーですね。世界観をお客様とスタッフに共有して思い思いに過ごしてもらう。ここはそういうコンセプトのイベントです」 僕の目論見は外れた。彼はずっと、別の人間を褒め続けている。彼の欲しいものが分からない限り、付け入る隙がない。 僕は角度を変えて質問した。 「オーナーさんって、どういう方なんですか」 「僕です」 言われて、初めてその人の名前を見た。ウラタロ、と表示されている。 目の前にいるのがオーナーだと分かれば話は早い。金も人望も彼にはすでにある。それなら、彼が自らインスタンスを回っているのは、承認が欲しいからだ。そこを突けばいい。 「そうなんですか! オーナーさんとお話しできるなんて光栄です」 「いえいえ、僕は何もしていません」 「またまた、イベントをデザインされて、こうして僕にも声をかけてくれたじゃないですか」 「たまたま今日はそういう日なんですよ。普段は、あそこ」 そう言って、彼は白い指でカーテンの掛かった一室を指す。 「バックヤードから、皆さんを見ています」 「どうしてそんなことをされているんですか?」 おそらく指示役をしているのだろう。あえて踏み込まず、シンプルな質問で攻めようとした。彼から語らせれば、頷いているだけで距離が縮まっていくはずだ。 ウラタロは照れくさそうに、しかし確かな響きで答える。 「他人が楽しそうにしているのを見るのが好きなんです」 続きを待った。しかし、ウラタロはそれ以上言わない。 「それだけですか?」 「はい。それだけです」 沈黙を埋めるように、彼は微笑んだ。 「昔からそうなんですよ。交ざるのが苦手でね。作ったり、教えたりするほうが向いてるんです」 ここまで来ても、彼に取り入る手がかりさえつかめない。 天然なのか、わざとなのか、分からなかった。欲しがっているものの見えない相手からは、何も奪えない。少なくとも、僕はそこで、この夜の予定が崩れたことを理解した。 「あなたは?」 「え」 ウラタロに問われ、素の声が出る。 「お仕事、されてるんですか。学生さんかな」 用意していた嘘を話すつもりが、僕は少しだけ本当のことを言ってしまう。 「……夜に、接客の仕事をしています」 「そうなんですか」 彼の声は変わらなかった。驚きも下世話な興味も、同情さえ感じられない。 「大変でしょう」 「まあ、はい」 「僕も営業なんですよ。同じではないけど、喋って売る仕事という意味では、少し近いのかな」 不意に、青い瞳がこちらを向いた。 「さっきの褒め方、上手かったですよ」 呼吸が止まる。見抜かれていた。穏やかな口調だったとしても、僕の体は恐れに強張る。優しいふりをして近づいてくる人間が、多すぎた。 「……怒らないんですか」 「どうして?」 「いや」 僕が口を噤んだのも気にしない様子で、ウラタロが言う。温もりの宿った声は、かすかに弾んでいた。 「上手な人に会うと嬉しいんですよ。僕も長くやってるので」 それから二十分ほど、僕はほとんど一方的に喋っていた。 何を話したのか、はっきりとは覚えていない。高校を辞めた理由、店のこと、家のこと。全部を話すことはできず、順番はめちゃくちゃだった。こんなに長く自分の話をしたのは初めてだった。 ウラタロは僕の話を一度も遮らなかった。正確に相づちを打ち、的確に質問を挟んだ。それが技術だと分かっていても、会話から抜け出せなかった。 「僕、たぶん来月にはいなくなってると思うんですけど」 最後にそう言ったのは、試したのだと思う。 こういうことを言われた人間がどうするかを、僕は知っている。慌てるか、諭すか、聞かなかったことにするかだ。 ウラタロは、少し黙った。 「次の開催、第四土曜なんです」 そして、なんでもないことのように続けた。 「夜のお仕事だと土曜は厳しいですよね。次から、閉める時間を遅くしておきます。上がってからでも間に合うと思うので」 僕は返事ができなかった。 「来られたら来てください。無理ならまた今度で」 彼は、僕の言ったことに何も答えなかった。否定も肯定もせず、ただ僕のために、予定を変更すると約束した。 「お話、面白かったです。また聞かせてください」 微笑みを残して、イベントのオーナーは他の客のほうへ歩いていく。 僕は壁際に立ったまま、動けなかった。 ウラタロの髪にきらめく青色が、暗いフロアを横切っていく。 その夜、僕は誰からも何も取らずにログアウトした。 第四土曜、僕は再びノクティスラを訪れた。
◇
『それから一年間、僕はイベントに通い続けました。 ノクティスラの人々は温かかった。取り繕うことに慣れた僕が対等な会話をできるようになるのに時間がかかりましたが、ここではそんな僕さえ受け入れられるようでした。誰かが無理に盛り上げたり能力を誇示したりすることもなく、それが僕の知っている店と違ってとても心地よかったのです。オーナーであるウラタロさんの意志が、イベントの隅々にまで行き渡っているようでした。 しかし、あの夜僕を救ってくれたウラタロさんにだけはどうしても会うことができませんでした。スタッフの方に尋ねると、オーナーは忙しくて、なかなかイベントに顔を出すことはできないと教えてもらいました。彼が接客をしたのは特別な回で、本人も裏方を好んでいると。僕がウラタロさんから聞いたままでした。 もう一度、ウラタロさんに会いたい。なんでもない話をしたい。また互いの苦労を分かち合いたい。今度は下心からではなく、あなたへの興味と尊敬から、あなたの話を聞かせてほしい。 月に二度のノクティスラを楽しみにしながら、僕は悶々としていました。自傷行為をやめられたことも、高卒認定を受けて専門学校に入学したことも、ぜひ聞いてもらいたかった。一度話しただけの客がアポイントメントを取っては失礼でしょう。僕との約束のためにノクティスラの開催時間は延びたまま、それを守ってくれたウラタロさんだけがいませんでした。 もしかしたら、このイベントのスタッフになれば、ウラタロさんにまた会えるのではないか。 あなたの作った場所で、あなたがくれたものを誰かに渡すことができるのではないか。そうすることが、僕があなたにどれだけ救われたかの、証明になるはずだと。 そう考えていた矢先、ノクティスラの新規スタッフ募集が告知され、僕は迷わず応募しました。 面接で再びあなたに会った僕がどんな想いでいたか、ウラタロさんはご存じありませんよね。 あなたはあのとき、僕になんとおっしゃったか、憶えていますか? ミサトさんは、僕が普段ノクティスラを訪れていることを知っていました。実際に話したこともあります。 けれどもウラタロさんは、「僕たちに救われたと言ってくれる人が、今度は僕たちの仲間になりたいと言ってくれる。こんなに嬉しいことはない」とおっしゃったんです。 僕は、あなたに救われた。にもかかわらず、その他大勢と同じように処理された。僕のことなどあなたは忘れていて、インスタンスによくいる人間としてしか把握していなかったのです。 晴れてスタッフになったあとも、初めて会った日についてさりげなく触れたことがあります。しかし、あれほど真心のこもった接客をされるウラタロさんが表面的な話しかしないので、疑惑は確信に変わりました。 僕を変えた、宝物のような二十分間は、僕だけの思い出でした。 だから、何だというのでしょうか。 僕がここに来てやることは変わりません。 イベントのため。お客様のため。そして、この場所を統べるウラタロさんのために。 僕は生活の余剰リソースをすべてノクティスラに捧げることにしました。 残念ながら、ウラタロさんと一対一でお話しする機会は持てませんでした。ウラタロさんはイベントの一線から退いていて、相談も面談もミサトさんの役目になっていたからです。けれどもこのイベントがどれだけウラタロさんにとって大切か身に沁みて理解していましたので、僕は運営やメンバーの助けになることを積極的に提案することにしました。 けれども、結果はどうでしょうか。僕は無駄に、ウラタロさんやミサトさん、スタッフたちの負担を増やした気がしてなりません。僕は傲慢で、思いやりに欠けています。自分にできることを他人にも強要してしまいます。収益化のことはともかく、講習会については、僕が人望を失っていったことが参加人数に表れています。 僕のせいだと思わなければ、かえって辛い。ウラタロさんのイベントに、いい加減な気持ちでいる人たちがいることが許せない。 VRChatは楽しいところです。イベントは楽しい場所です。けれども、作り手の側に回ったら、自分のことは二の次です。お客様を楽しませることが第一の目的になります。接客とはそういうものです。本来、とても苦しいものです。 進んでイベントに参加しておいてその苦しみを引き受けない人たちが多いことに、僕は疲れてしまいました。 僕は間違っていますか、ウラタロさん。 たくさんの人が関わって、一つのものを作り上げることに、苦労が伴わないはずがありません。それが一部の人に集中しているのだとしたら、その組織は歪です。 そもそも貴重な人生の時間を、仕事や学業、家のこと、それらをやり切って残った命とも呼べる時間を、使うのだから、本気でやらなくてどうするのでしょうか。 いい加減な気持ちで取り組んで、中途半端な出来映えになって、それでいいのでしょうか。 どうしてこのことが彼らに伝わらないのか、理解に苦しみます。 ウラタロさん。 あなたなら、きっと知っていますよね。 あなたなら、あの夜のように、僕の話を聞いてくれますよね。 お願いします。あなたの答えを聞かせてください。
トワ』
◇
鳥の鳴き声がして、僕はソファの上で覚醒した。 休日の朝、白い光がカーテンの隙間から漏れて、家具の影を薄明かりの中に際立たせている。背中が痛み、不十分な睡眠では取り除けなかった気怠さが頭に霞をかけていた。 毛足の長いラグマットの上に、スマートフォンが落ちている。充電はもう切れていた。 それを手に取り、テレビの裏から伸びている充電器のコードを差す。しばらくして電源が入り、ホーム画面にいくつかの通知が表示された。 僕は意識がなくなる直前、トワに返信を書いた。 講習会、モチベーションのギャップに対する悩み、彼の個人的な事情。それらをつぶさに打ち明けた私信に対し、返すべき内容は一つだった。 二人で話をしよう。できるだけ早く。今は君に寄り添わせてほしい。 解決策よりも、ただ話を聞くことのほうがトワに必要だと判断した。 提案した土日中という日程に対して、土曜、つまり今日の夜をトワが指定してきたのは、正午近くになってからだ。 今夜はノクティスラはない。会議が一つ入っていたが、延期の連絡を入れた。 僕は家事を早めに済ませると、約束の時間まで持ち帰りの仕事をした。
◇ インバイトのリクエストが通ると、僕はトワのもとに向かった。 表示されたワールドは、ノクティスラの会場だった。ワールドのURLはイベントのメンバー全員が参照できる。もちろんインスタンスはインバイト形式だ。 僕はトワがいる場所に向かって、見慣れた、無人の通路を進んでいった。 トワはホールの壁際、星の灯るランタンの下にいた。普段着のアバターで、僕に気づくと深々と礼をした。 「すみません、あんなものを送ってしまって」 「謝らないで。……大丈夫だから」 本心だった。僕から提案したのだし、こういうことには、慣れている。 「いえ、あの」 トワは言葉に詰まり、しばらく黙っていた。 僕も急かさなかった。ここに来るまでに話すことはいくつか考えてきた。トワの様子を見て、何を話すか、触れずにいるか、決めるつもりでいた。 沈黙を破るのは勇気が要ることだ。僕は、いちばん言いにくいことをまず口にした。 「トワくん。先に、謝らなきゃいけないことがある」 「はい」 「あの夜のことを、僕は覚えていない」 トワは静止したまま僕の言葉を聞いていた。 「二年前の、僕が一日だけ接客をした回だ。あの日、僕は何十人と話した。一人一人の名前も、何を話したかも、夢中になっていたから記憶に残っていないんだ」 でも、と僕は続ける。事務的だった口調に、温度を宿す。 「とても楽しい夜だった。君が救われたと言ってくれて、嬉しかった。そのことには、お礼を言いたいんだ」 「……知っていました」 トワの声は落ち着いていた。 「スタッフになってから、それとなく話を振ったことがあります。ウラタロさんが詳しくお話しにならないので、たぶんそうだろうと思っていました」 「そうか」 「怒っていません。接客イベントでは、珍しくないことは。あの夜よりも……ノクティスラに入ってからの時間のほうがずっと長いんですから」 おそらく彼はそれを、何度も自分に言い聞かせてきたのだろう。殊勝な口調が僕の胸を刺した。それに、今日まで僕はトワと一対一で話す時間を作ってこなかった。 「トワくん、提案があるのだけど」 「はい」 「君さえよければ、これからも時々二人で話さないか。ノクティスラのことでなくてもいい。なんでもない話を君としたい」 「え」 トワは僕を見つめて固まったあと、慌てて言った。 「だめです、ウラタロさんはお忙しいのに」 「心配しないで」 僕は笑む。 「僕が、トワくんと話したいんだ。君は、僕だけが本気と言ってくれたね。僕も……トワくんは、昔の自分に似ていると思っていたんだ」 失礼だったら申し訳ない、と言い添えると、トワは大きく首を振った。 「どういう点がか……聞いてもいいですか」 「僕も、夜の街で働いていたことがある」 沈黙するトワに、僕は話し始めた。 「新卒で入った会社を過労で辞めてね。繁華街のバーで、カウンターに立っていた。二年くらいかな」 「ウラタロさんがですか」 僕は頷く。 「君のいた場所とは違うよ。君のほうがずっと厳しいところにいたと思う。ただ、同じ通りにクラブはあった」 僕の意識は、その思い出のドアを開ける。氷の冷たさ、秘密めいた喧噪、噎せ返るような花の香り。今でも、手に取ることができる。 「カウンターの中って、いい場所なんだ。同じ部屋で一枚板を隔てて、こちらは客じゃない。飲む必要も、盛り上がる必要もない。ただ手を動かして、話を聞いていればいいんだ」 言いながら、僕は自分の手のひらを見た。白い、作り物の手だ。 「話を聞くのは、もともと得意だった。だんだん、僕がいる日を選んで来てくれる人が増えた。同業のお客さんも多かったよ。上がったあとに寄ってくれる子たちがね。だから、ああいう喋り方は見慣れていたんだ」 「……あの夜、褒め方が上手いって言われたとき」 「あれは本当に感心したんだよ」 僕が微笑むと、トワは顔を背けた。 「辞めた理由はいくつかある。体が持たなくなったのもあるし、昼の仕事に戻りたいのもあった。いちばん大きかったのは」 言葉を選ぼうとして、うまくいかず、そのまま言った。 「あそこで僕が渡していたものにも、値段がついていたことだ」 トワが俯いたまま小さく頷く。脳裏で、シャンデリアの輝きを閉じ込めた泡が昇っていく。 「酒には値段がある。それはいい。けれども僕が話を聞くと、その人はまた来てくれる。また来てくれれば、店は儲かる。僕の給料もそこから出ている」 泡は弾け、紙幣になる。手渡されるそれを、僕は慎重に扱っていた。 「優しくすることが、売上に換わるんだ。誰も僕に、優しくしろとは言わない。言われなくても僕はそうする。そうしたいから。でも、そうすると……儲かるんだ。途中から、どこまでが僕の気持ちで、どこからが商売なのか、分からなくなった」 耳の中で反響するホールのざわめきが、いっそう高くなる。目の前に、もう顔も思い出せない客の、幻を見る。 「あるとき、常連さんに言われたんだ。あなたのおかげで救われた、って」 そのときと同じ表情を、僕はHMDの下で浮かべた。 「嬉しかったよ。本当に。でも、その人はカウンターにお金を置いて帰った。レジがある部屋で、僕はその言葉を受け取ったんだ」 音は消え、幻は去る。静かな部屋が、僕が今いる現実として帰ってくる。目の前にいるのは、俯いて座る少年のアバターだ。 「それからは、うまく笑えなくなった。自分が誰かを楽しませるたびに、値札が見えるようになってしまってね」 「そんな」 呟くトワに、僕は首を振った。 「僕の問題だよ。店にも、お客さんにも、何の落ち度もない」 言い切って、ノクティスラのホールを見渡す。ランタン、テーブル、カウンター。カーテンの向こうのバックヤード。みんなの協力で、三年をかけて作り上げたものが、暖色の光の下に並んでいる。 「だから、ここを作ったんだ」 トワも、追ってその一つ一つに視線を注いだ。 「誰からもお金を取らずに、同じことをやってみたかったんだ。僕らが力を合わせたとき、その壁を乗り越えられるかどうか、確かめたかった。ノクティスラは、そういう場所だよ」 言い終えてから、少し恥ずかしくなった。 「この話をしたのは、君が初めてだ」 「そうなんですか」 トワは少し驚いて聞き返した。 「誰にも言ってない。ミサトさんにも、ユノさんにも」 彼はしばらく動かなかった。やがて、掠れた声で名前を呼んだ。 「ウラタロさん」 「うん」 「手紙に書かなかったことがあります」 相づちを打ち、灰色の瞳を見つめる。 「僕、あの夜、盗みに行ったんです」 彼は決心した様子で、語り始めた。 「VRChatを始めたのは、稼ぐためでした。金を持ってそうな人を見つけて、仲良くなって、貢がせる。そういうことをしている人がいるのを知って、自分にもできると思いました。やり方は、学んでいたので」 手紙の口調と同じだ。過去の暗さに引きずられまいとする、平坦な声だ。 「あの夜、僕はランタンの下に立っていました。見つけてもらうためです。壁際で、明かりの近くにいれば、必ず誰かが来る。そう、店で覚えたんです」 「うん」 「来たのが、ウラタロさんでした」 彼は一度、息を吸った。 「褒め方が上手いですねって言われたとき、終わったと思いました。見抜かれたんだって。でも、あなたは怒らなかった。上手な人に会うと嬉しいって、言ったんですよ」 「……そうだったのか」 「そうです」 トワははっきりと言った。 「軽蔑されると思って、手紙には書けませんでした。今も、黙っていたほうがよかったのかもしれません。でも、ウラタロさんが自分の話をしてくださったので」 そうして、彼はまた床を見つめた。 驚きはなかった。この世界には様々な人が訪れる。互いの素性は知らない。楽しい時間を共有できれば充分。トワはスタッフになったけれど、その歪んだ動機はとっくに捨てていた。直に訊かなくても分かる。彼の一年間が、それを証明している。 僕が言うべきことは、一つだけだ。 「トワくん」 「はい」 「君は、何も取らずに帰ったよね」 息をのむ音が聞こえる。顔の脇で、青いピアスが輝いた。 「僕は何もしてない。話を聞いただけだ。あの夜、盗まずに帰ると決めたのは、君だよ」 「……違います」 トワは濡れた声で言った。吐き出すように叫んで、否定する。 「違うんです。違う。僕は、ウラタロさんが」 言葉にならない嗚咽を漏らす彼を、僕は黙って見守った。ふと、こんなことが前にもあったような気がした。誰かが心の中で泣いていて、僕はその隣にいた。 きっと、星の灯るランタンの下だった。 ◇
「すみません」 「いいよ」 トワは鼻をすすると、落ち着きを取り戻して言った。 「みっともないところを、お見せしました」 「そんなことはない」 僕は先ほど思い出したことを口にした。 「トワくん。さっき、あの夜のことは覚えていないって言ったけれど」 「はい」 「一つだけ、あの夜に変わったことがある」 トワが顔を上げた。 「うちはもともと一時間制のイベントだったけれど、僕がスタッフとして出た回を機に、二時間開くことにしたんだ。遅い時間にしかVRCに入れない人が来られるように」 「そう、だったんですね」 「それからずっと恒例だよ。イベントの規模が大きくなったから、二時間でちょうどよくなった。僕はそれを、決めたことは覚えているんだ」 かすかな祈りと悔しさが、声から温度を奪う。 「でも、きっかけになった誰かのことは、思い出せない」 トワは無言で頭を下げた。長く下げたまま、上げなかった。 それから、実務の話をした。バックヤードからペンを持ってきて、壁にメモを取る。 「講習会は、月に一回にしよう。内容も、一緒に考えさせてくれないか」 「そんな、ウラタロさんはお忙しいのに」 「忙しいのは事実だけど、だからって君に丸投げにはしておけない。イベントのためなのだから、僕もやるべきだ」 トワは小さく、「ありがとうございます」と言った。僕は次の行を書く。 「それから、参加率のことは評価に使わない。サーバーに明記する。誰が来ても来なくても、講習会の価値は変わらない。トワくんの価値もね」 「……はい」 決定事項を確認したあと、トワの顔を覗き込んで言った。 「決して無理をしないで、負担を抱え込まないこと。君は大切な、僕の友達だ。迷ったときは、僕のことを思い出して」 トワは僕を見つめ返して、初めて、微笑んだ。 「いつも、思い出していましたよ」 帰り際、トワはもう一度深く頭を下げた。 「今日は本当に、ありがとうございました」 「こちらこそ。また話そう。いつでも連絡して。僕も連絡する」 「分かりました」 トワが手を振る。いつもの、ノクティスラのトワとして。 「僕のこと、ちゃんと見ていてくださいね、ウラタロさん」 僕も笑顔を浮かべ、手を振り返した。 「もちろんだ。これからもよろしく」 「よろしくお願いします。おやすみなさい」 「おやすみ」 トワが消える。しんと静まり返ったホールに、壁の文字だけが今夜二人が話した痕跡として残った。 息を吐き、トワの立っていた場所の上を見上げる。星の灯るランタンは、変わらず周囲を照らし続けている。孤独な夜に寄り添う星をイメージして、最初期にモデリング担当に作ってもらったインテリアだ。とても、気に入っている。 ひとまずは、一件落着だろう。追い詰められていたトワが回復するのに、時間がかかるかもしれない。それでも、僕らのわだかまりは解消された。僕が一方的に気づかないでいたわだかまりだ。だからそのために、僕が今後時間を割くのは必須のことだ。 それに、今夜癒やされたのはトワだけではない。僕も、彼と話ができて、嬉しかった。 「久々に、いい時間だった」 呟いて、VRChatからログアウトする。その夜は、深く眠ることができた。
◇
それからの数ヶ月は、僕の記憶の中でいちばん穏やかな時間として残っている。 トワとは月に一度、都合の合う日に話した。ノクティスラのことが半分、それ以外が半分だった。彼が受けている授業のこと、僕の仕事のこと、お互い好きなもののこと。トワも実は小説好きで、教室では浮くため周囲に隠れて読んでいるという。本の話で盛り上がると、僕は本来の自分に近づく感覚がした。 講習会は月一回になった。構成は二人で決め、資料の叩き台は僕が作った。参加率を評価に繋げない旨は、サーバーに明記してある。 効果は目に見えて表れた。参加者は十二、三人に落ち着き、トワを取り巻いていた緊張や焦りの空気は立ち消えた。雑談の中、彼が参加者と笑い合っているのを見た。 イベント本番でも、他のメンバーの口からトワの名前が自然に発せられるのを聞くようになった。 ミサトが「最近トワくんはとても聞き分けがよくなりました」と報告したとき、少し言い方に引っかかりを覚えながらも、僕は素直に喜んだ。 僕とトワは間違っていなかった。二人だけの会話は、確実に組織と個人によい影響を及ぼしている。 回り道をしたけれど、手遅れにならなくて本当によかった。
問題が起きたのは、五月の連休明けだった。 クレハというスタッフから、退会の連絡が来た。 規模拡大のときに入った接客担当で、三年目になる子だ。出席率はスタッフの中でも高く、会議にも講習会にも毎回顔を出していた。明るく、挨拶を欠かさず、後輩の面倒見もいい。誰かが落ち込んでいれば彼が冗談を言って場を和ませるのはよくある光景だった。 メールに、理由は書かれていなかった。 僕はすぐに慰留の返信をした。二年以上いてくれた子だ。急なことで驚いたこと、これまで支えてくれたことへの感謝、もし何かあったのであれば聞かせてほしいことを綴った。 返事はなかった。 二日後、ユノからリンクが送られてきた。 「これ、うちのことじゃない?」 noteの記事だった。タイトルは『あるVRイベントを辞めた話』。投稿者名はありきたりなものだ。 冷静な筆致から始まり、徐々に恨み節を帯びるそれを僕は読んだ。 筆者は三年以上続いている接客型イベントのスタッフだった。そのイベントは数十人のメンバーを抱えていて、オーナーは表に出ず、いつもバックヤードから全体を見渡している。ロールプレイをベースにした接客に定評があり、技術を高めるために講習会が行われていた。 講習会で、自分はいつも結果を出すことができなかった。褒め言葉よりも、改善点のほうを多く受け取っていた。 そして、その講習会を取り仕切るスタッフが、会議で他のスタッフの姿勢を批判し、能力を判定できると発言した。オーナーは彼の言い方だけを注意して見過ごした。 講習会は今も続いている。そして、そのスタッフとオーナーは懇意で、二人だけで話をしている。 彼らがオレンジステータスにして、同じ時間にログインしているところを何度も見たから分かる。 僕のほうが先にイベントに入ったのに、オーナーに憧れたのに、彼は横入りしてオーナーを奪ったのだ。 許せない。 最後まで、イベントの名前は書かれていなかった。 けれども、読む人が読めばこれはノクティスラの、オーナーとトワの話だと察せられるだろう。 筆者の見方は歪んでいる。匿名とはいえうちのイベントを非難されていい気持ちはしない。 しかし、書かれていることはすべて、実際に起きたことだ。 彼の蔑ろにされたという想いを、否定することはできなかった。 ◇
ミサトの動きは速かった。 彼女はクレハに連絡を取り、事実確認ではなく、話を聞かせてほしいという形で場を設けようとした。僕も同席する用意があることを伝えてもらった。 返事は短かった。 話すことはありません。 二度目の連絡にも、同じ文面が返ってきた。三度目には、返信がなかった。 「これ以上は、私からは難しいです」 通話で報告するミサトの声は、珍しく沈んでいる。 「連絡を重ねると、こちらが圧力をかけている形になります」 「そうだね」 「申し訳ありません」 「ミサトさんが謝ることじゃない」 僕は記事のことを考えていた。 説明しようとすれば、トワと個別に話していた理由を明かすことになる。それは彼の個人的な事情で、僕が勝手に開示していいものではない。 説明しなければ、認めたことになる。 結局、僕は無言を貫いた。公式のアカウントでも、個人のアカウントでも、何も書かなかった。聞かれたときだけ、個別で回答する。事実を必要な範囲に絞って説明すれば、それ以上詮索されることはなかった。 記事は一週間ほどSNSで拡散され、VRChatユーザーから言及された。 書き手の嫉妬だと切り捨て、晒しを咎める声がほとんどだった。表立ってどこのイベントか推測する者はいなかったが、記事の話題の近くで、ノクティスラのことを匂わせる者もいた。同情や擁護、揶揄の反応は、イベントとはまったく関係のないアカウントに見られた。 名指しは最後までされなかった。 ノクティスラのメンバーは誰もこの記事について触れなかった。サーバーは、業務連絡以外では動かない。雑談チャンネルは示し合わせたように沈黙していた。以前ならばなんでもない投稿をするクレハが、今はいない。あの記事を書いたのは、クレハで間違いない。 全員があの記事を読み、それがうちのことだと、認めている。 僕は触れられない。トワと、そして原因とはいえクレハを守るためにも、平静を装い続けた。 会議や、イベント本番の空気が変わった。スタッフは必要なことだけを話して、早々に場から抜けていく。接客担当の欠席が相次ぎ、残った人員でインスタンスを回した。客の顔ぶれは同じになり、以前のような賑わいが戻ることはなかった。 トワは講習会を中止にした。理由はリアルが忙しいから。誰も彼を責めず、感謝の言葉を数人が送った。目立った能力はなくても、場を和ませる明るい人間がいないこと、クレハが恨みを残して去ったことの影響が、イベントを蝕んでいた。 スタッフは一人ずつ抜けた。人生の節目を迎えたり、他にやりたいことが見つかったりといった理由だった。どれも本当のことなのだろう。しかし、雑談チャンネルを埋める別れのメッセージは短かった。何も書かないスタッフもいた。僕は一人一人の働きに感謝する返信を書き、またどこかで、と締めた。 あんなことがあってなお、僕はまだ、またどこかがやってくると、信じていた。
トワが面談を断ったのは、六月の終わりだった。 「もう大丈夫です」 灰色の画面の向こうで、彼が明るく言った。 「ウラタロさんのおかげで、ずいぶん楽になりました。今までありがとうございました」 「こちらこそありがとう」 僕は動揺を隠して言った。まだ伝えたいことがある。話したいことがある。触れずにいることが、ある。 「何かあったらいつでも言ってね。僕も……トワくんと話せて楽しかった」 僕が言えたのはそれだけだった。本当は、クレハのことがあっても、僕たちの過ごした時間は損なわれないと、僕は気にしていないと、伝えたかった。 「はい」 トワの声が揺れて聞こえたのは、僕の願いだったかもしれない。 「お世話になりました。ウラタロさん、いつまでも元気でいてくださいね」 そうして、通話が切れた。 その明るさと台詞に違和感を覚えながら、僕にはどうすることもできなかった。 パソコンをシャットダウンして、椅子を引く。机の上に、読みかけの本が置かれたままになっていた。次にトワと会ったときに話すつもりで、読み進めていたものだ。 栞を挟んだまま、僕はそれを本棚に戻した。
◇
七月の頭、ミサトから通話の要請が来た。 共有事項の確認を済ませたあと、彼女は少し間を置いて言った。 「異動が決まりました」 咄嗟に理解できず、「異動」と鸚鵡返しする。 「総務から人事に移ります。十月付で、係長です」 僕は遅れて、それが意味するところを悟った。 「おめでとう」 「ありがとうございます」 彼女の職場が定時で終わることも、だから四年近くノクティスラに時間を割けたことも、知っていた。総務課の主任として、備品の管理から社内規程の運用まで一人で回していることも聞いていた。 人事に移れば、人を見る仕事をする。部下も持つ。 ノクティスラで無償で行っていたことが、彼女の職業になるのだ。 「年内で、マネージャーを降りさせてください。引き継ぎは、余裕を持って進めます」 「分かった」 他に言えることはなかった。本当に、めでたいことだ。代わりに、一つ尋ねる。 「クレハくんのこと、気にしてる?」 「いえ」 ミサトは即答した。 「関係ありません。話はもっと前から来ていました」 そうか、と僕は言った。 事実かどうか確かめる方法はないし、その必要もない。ただ彼女の引退が、ノクティスラにとって大きな欠落になることは確かだ。 問題ない。リアル優先なのだから、こういうことはある。準備の時間はたっぷりある。後任を育てることもできるだろう。 僕は報告してくれたミサトに感謝して、通話を閉じた。 後日彼女から送られてきた引き継ぎ資料は、完璧だった。 業務の一覧、年間スケジュール、外部イベントとの連絡窓口、使用素材の管理表、新人教育のチェックリスト。ドキュメントは整理され、必要なリンクが貼られていた。後任の候補を三人挙げ、それぞれの適性と懸念まで添えている。 相談役については、精緻なマニュアルを読んでも完遂できるものではない。彼女の冷静さと判断の的確さが、組織のトラブルを未然に防いできた。これについては、後任にミサトの仕事をよく見て、ノウハウを身につけてもらうしかないだろう。ここまでマニュアル化しては、それこそ仕事だ。 メンバーは抜け、ミサトもいなくなる。これを機に、イベント運営を一からやり直そう。 新しく人を入れ、風通しのよい組織に再生しよう。誰も特別扱いしない。業務の属人化はしない。楽しくやるという方針を徹底し、誰にとっても居心地のいい場所にする。 まだ、やり直せる。ノクティスラを、ここで終わらせるわけにはいかない。 しかし、ユノとの久々の通話が、その希望を揺るがした。 「ワールド担当、降りていい? 本業がきつい。申し訳ないけど、これ以上は力になれない」 夜遅く、ユノの声には疲労が滲んでいた。申し訳ないというのも本心だろう。 「そうか。今までありがとう、ユノさん」 僕は肩を落としたことを悟られないよう、礼を言った。言い慣れていた。 「もう一人の担当にメインになってもらえないか頼んでみるよ。ここのところ顔を出していないけれど、反応があれば三者で話す場を設けたい」 「そのことなんだけど……そのことでもないか」 言葉を濁すユノに、なに? と問う。彼はしばらくして重たげに口を開いた。 「ウラタロさん。言いにくいし、答えたくないかもしれないけど、ぶっちゃけノクティスラ続けるの?」 「続けるさ」 僕は明答する。そうする以外考えてこなかった。けれども、ユノがなぜそう言うか推察はできた。 「そう? ウラタロさんがそのつもりならいいけど」 これは友人として言う、と前置きしてユノは話した。 「うちのメンバー、結構抜けたよ。講習会はなくなって、それは前の状態に戻っただけだけど、新しくスタッフ入れるにしても育てるリソースが足りないよ。前みたいに教育できる人がいないんだ。それじゃスタッフも定着しない。要のミサトさんも年内で辞めることになってる。俺も、いなくなる」 何か言わなければ。そんなことはないと、まだノクティスラは続けられると、ユノにはっきりと告げなければ。 言えない。メンバーの時間を預かる組織の長が、閉じた場とはいえ根拠のないことは。 「客も減ってる。俺は現場に行かないけれど……集合写真見れば分かるよ。それに、ノクティスラに似たイベントが増えた。知ってる? ノクティスラの元スタッフが新興イベントに移ったこと」 「……知らない」 そうか、とユノが漏らした。後悔しているような口調だった。 「俺からすれば、ノクティスラは充分やったよ。いろんな人に居場所を与えた。楽しい時間を提供した。まだ人が来てくれるうちに、幕を引いてもいいんじゃないか」 「オーナーは僕だよ」 ユノの声が憐憫を帯びる。 「そのオーナーの君が、パンクしないでいられる?」 「ミサトさんの後任は、三人考えている」 「もう声はかけた?」 「……まだ」 忙しくて、メールを送れていなかった。完璧な引き継ぎ資料だけが、僕の手元にある。 「でも、ミサトさんはノクティスラが続くと信じて、資料を書いて、候補者を考えてくれたんだ。彼女の頑張りを無駄にするわけには」 「ウラタロさん」 ユノがはっきりと、僕の名前を呼んだ。 「俺はノクティスラが好きだよ。ここのみんなは善意で動いていた。ウラタロさんが最初にそれを掲げたからだ。みんなウラタロさんと一緒に何かしたくて、このイベントに入ったんだ。でも」 彼の本音が、粗いポリゴンでできた日々を蘇らせる。いつもいた人。もういない人。温もりは遠く、声も思い出せない。 「ウラタロさんが忙しくなって、ミサトさんが仕切るようになって、空気が変わった。ミサトさんのせいじゃない。ただ、そのときからイベントの質は変わっていたんだよ」 ウラタロさんが楽しそうじゃなくなってから。 「僕はずっと楽しかったよ」 こんな空虚な声では、ユノを騙すことはできない。案の定無視される。 「トワくんのことも、記事のことも、大した問題じゃない。ごっそり人は抜けたけれど、もうずっと前から、彼らはきっかけを待っているように見えた。それまでは、ウラタロさんへの義理で続けていただけだ」 心臓がどんどん冷たくなっていく。もう聞きたくない。 「VRChatは、変わったんだ。俺たちのリアルも、変わっていくんだ。ずっとこれを続けることはできない。もしもノクティスラだけを続けたいなら、ウラタロさんがオーナーから降りるしかない」 僕は一度通話を切り、すぐに再開した。 「ごめん。一瞬回線が落ちたみたい」 「ああ」 ユノは熱から醒めたように、落ち着いて言った。 「今決めなくていい。他の人の意見を聞いても、聞かなくてもいい。ただ」 その冷徹さは優しさだと知っていた。知っていて、受け入れたくなかった。 「これ以上リソースを無駄にしたくないなら、考えないといけないよ、ウラタロさん」 僕は極めて事務的な声で答える。 「分かった。忠告ありがとう」 そういえば、以前ユノが何か言いかけて言わなかったことがある。当時の僕には重すぎると、抱えたままにしていることがあるはずだ。 聞ける空気ではなかった。同時に、そんなふうに大事にしてくれる友達の前で頑なになっている自分が、情けなかった。 「また話そう」 ユノはそう言って、通話を切った。昔は一緒にいろんなワールドに行って、悪ふざけをしたりデバッグをしたりした。ユノも、忙しくなって、VRChatを遊べなくなって、辛いだろう。 自分の作ったイベントワールドがなくなってしまったら、とても寂しいだろう。 「なのにどうして……」 誰かと話したかった。誰の名前も思い浮かばなかった。仕事の文脈ではなく、なんでもない話を。 一人名前が浮かんだが、遥かに年下だ。弱っているところを見せて、幻滅されたくない。自分のせいであれば尚更。 読みかけの本は変わらず、本棚に置かれたままだった。