僕がバターになった理由 上
仮想現実の世界で、僕がとる姿はバターだ。 黄色い表面に描かれた簡素な顔、体を緑色の包装紙に包まれ、針金のように細い四肢を伸ばしている。VRChatユーザーならば、誰もが一度は見たことのあるパブリックアバターだ。誰でも使える、洒落の利いた、人でも獣でも、生き物ですらないアバター。 この姿をとるようになる頃、僕のログイン頻度は減っていた。前々からオレンジステータスにすることが多く、フレンドとも疎遠になっていた。同時期にVRChatを始めた彼らも、リアル重視になったり、違う界隈に行ったりと、別の道を辿っていた。長く続けていれば変化は当然のことだ。悪いこととは思わない。 VRChatをやめた人ももちろんいる。彼らに対しては、わずかに胸を刺す寂しさと、煮凝りのような羨ましさを覚えていた。 きっと、仮想現実より大切なものをリアルで見つけたのだ。否応なくそちらに引き戻されたパターンも考えられる。あるいはもっと単純に、飽きたとか、トラブルに辟易したとか、そんな事情のほうが多いのかもしれない。 なんにせよ、ここではない場所へと移動した彼らを、尊敬しながら、心のどこか、底のほうで、恨んでいた。 僕は、ここがもう以前のような場所ではないと知りながら、どこにも行くことができない。僕の現実はより酷くなっていく。だからわずかな楽しみを期待してログインするのだが、もう僕を昔のように求めてくれる人はいない。 彼らの存在こそが、何よりも重要だったのに。 VRChatが放課後の教室だった時代は終わった。 誰のせいでもない。インターネット上のあらゆる場所と同じ運命を、辿ったというだけのことだ。
◇
VRChatを始めたばかりの頃、僕は女性アバターを着ていた。 ノルマのプレッシャーに耐えながら製品を売り込む仕事とは違う顔を、夜の世界に求めた。見た目から誤解されることも多いが、本来僕はたおやかで繊細なものが好きなのだ。学生時代は読書を好んでいたし、そういった話のできる女性の友達が当時多かった。 VRChatは僕の期待に応えてくれた。単体でVRChatを遊べるHMDを手に入れ、仮想現実の世界に飛び込んだとき、周囲は同じように初心者ばかりで、優しさを持ち寄れる人が多かったように思う。 対人コミュニケーションは不得意ではなかったから、フレンドはすぐに増えた。このHMDで表示されるアバターやワールドには仕様上の制限がある。それでもVRChatの本質である、コミュニケーションの楽しさは損なわれないと信じた人たちが、たくさんのイベントを立ち上げ、HMDに対応したアバターやワールドを作った。交流会に参加し、自分の仕事を打ち明けていた僕は、彼らの試みのいくつかでコンサルタントを務めるようになった。意欲的で温かい人たちのおかげで、大部分、それらは成功した。 僕も自分のイベントを持ちたいと思うようになった。メタバースは現実でばらばらの場所にいる人々を繋ぐハブであり、ぴたりと重なるレイヤーのようなものだ。それに救われた僕は、今までになく、かつ僕らしいイベントを作ることにした。 構想を練ると、それを丁寧に企画書にまとめ、信頼するフレンドに声をかけた。他プロジェクトで忙しいフレンド以外は、二つ返事で引き受けてくれた。同じ界隈出身という文脈を共有した者同士ということもあり、最初の顔合わせからメンバーのコミュニケーションは円滑だった。リアル優先を基本に、緩い納期を設けてタスクを振れば、きちんと成果物が上がってくる。イベントの準備は順調だった。スタッフの教育も進み、告知を打って、あとは開催を待つばかりになった。 イベントは成功を収めた。フレンドも、フレンドでない人も、たくさんの客が訪れた。彼らはワールドの細部を褒め、スタッフを労い、バックヤードぎりぎりに立っている僕にも声をかけてくれた。僕はそれを低姿勢で受け入れ、何度もお礼を言った。このイベントの主役はスタッフと客たちだ。彼らなくして今この空間に満ちている、温かい空気は存在しない。仮想空間でそれを感じられたことは、今でも奇跡だと思っている。 イベントは第二回、第三回と回数を重ねた。初回に見られたスタッフの連携不足を見直し、ワールドにも修正を加えていった。初参加の客も、リピーターも増え、彼らに喜んでもらえるとこちらももっと楽しませたくなる。イベントに季節要素を取り入れたり、ワールドの小道具に遊び心を加えたりした。SNSも活用し、他イベントとのコラボレーションを行った。 開催一周年を迎える頃には、僕たちのイベントは様々な界隈の人が訪れる、人気イベントへと成長していた。 すべてが完璧だったわけではない。ネガティブな要素を取り除くために、僕は裏で奔走した。僕の、決して表には出ない仕事を、スタッフは目に留めてくれていた。だから根回しも折衝も何も苦ではなかった。感謝の言葉をもらえれば、それで充分。人の好意に応えたいという人間性を、彼らが取り戻させてくれた。 あの頃の僕たちは、どこまでも行ける気がした。
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普段表に出ない僕が、一度だけイベントスタッフとして接客をしたことがある。 メンバーの思いつきで、オーナーである僕が一日だけ既存のスタッフに交じり接客をする回を設けたのだ。 物珍しさから普段よりも多くの客が訪れ、僕は僕目当てで来てくれた彼らのために、全力で接客をした。直接喜びの反応を受け取ることはむず痒くも嬉しく、イベント終了後は珍しくハイになっていたように思う。 スタッフから、今後も表に立ったらいいのではないかとからかいを込めて提案され、そのつもりはないと即答した。イベントの主役は、僕以外の参加者だ。今日彼らの目線を体験できたことは幸運だった。僕はバックヤードを愛している。そこから、友達が楽しそうにしているのを見るのが、好きなのだ。 同じ頃、イベントの訪問者数増加に伴い、イベントの規模拡大を計画していた。スタッフ募集をかけると、フレンドやフレンドのフレンド、客として訪れていた人、別のイベントのスタッフから初対面の人まで、様々な人が応募してきた。 マネージャーとともに丁寧に面接をし、志望動機を聞く。イベントの雰囲気やスタッフの名前が挙がる中で、「ウラタロに憧れて」「ウラタロと一緒にイベントを作りたくて」という声を聞いた。ウラタロというのは僕の名前だ。僕への信用の証として嬉しく思う一方、かすかに危うさを覚えた。このイベントは僕だけのものではない。しかし、僕が抜けたらどうなるのだろう? あまり考えないようにした。素晴らしいメンバーと作り上げてきた大切なイベントを手放す気はない。一人一人に伴走し、すべての参加者に特別な夜を届ける。それが僕が最初から、このイベントを通してやりたかったことだ。 新しく参加したメンバーとともに、準備と本番を重ねていく。縁が広がったことで、個人や他イベントから相談を持ち込まれることが増えた。そのすべてに対応しながら、少し、息切れしていた。 大丈夫。慣れれば持ち直せる。少なくともイベントに関しては、指針や計画を書類に残し全員に共有している。僕が抜けたらという不吉な予感への対策は、きちんと打った。引き継ぎ資料を読めば、次にどうすればいいか、誰でも分かるだろう。 僕たちを試す機会は、現実のほうから訪れた。 期の変わり目に担当エリアが二つに増え、上司も替わった。新しい上司は数字の詰め方が細かく、僕は帰宅してからもノートパソコンを開くようになった。自分の時間が限られるにつれ、VRChatに入るのはイベントのための会議や開催日だけになった。メンバーたちとの雑談も減り、ここで楽しんでやっていたことさえ業務めいてきた。 メッセージをくれたのはユノというワールド制作担当の一人だ。モデリングに精通している彼は、最も古いフレンドの一人でもある。ボイスチャットを繋ぐと、挨拶もそこそこに本題に入った。 「二周年に向けたワールドアップデートの話なんだけど、ぶっちゃけ今だとタイミングが悪い」 「Unityのバージョンアップのこと?」 「そうそう。時期は未定だけどたぶん来る。そうすると何が起こるかっていうと、前のバージョン移行のときみたいに、SDKが合わなくて表示がおかしくなるかもしれない」 「旧バージョンのワールドはどうなる?」 「今上がってるぶんはそのまま動くはず」 はず、をユノは強調した。技術者らしい誠実さだ。 「ただ、旧バージョンでワールドをアップデートするのは今後更新していくにあたってコスパが悪い」 「そうだね。ワールドの大規模改修は時期をずらそう。報告ありがとう。二周年イベントでは、飾り付け程度の小さなアップデートにしよう」 「悪いね、こちらの都合で」 「公式の仕様変更なら仕方ない。指示書を書き換えるから少し待っていてほしい」 「ああ……」 僕が話した内容を打ち込んでいると、ユノが尋ねた。 「ウラタロさん、大丈夫? 最近」 「え?」 意表を突かれ、指が止まる。 「忙しいでしょ。この件もあるし、他イベントからの相談も受けてる。仕事のことも以前より口にすることが増えたし、不満があるわけじゃないけど、メールの温度感も変化している」 「よく観察しているね」 滅多にプライベートに触れないユノに指摘されるなんて、よほど余裕を失っていたのか。声を沈ませまいとする僕に、彼はきっぱりと言った。 「ウラタロさんがパンクしないか心配だよ。俺たちはそれぞれの分野でベストは尽くせるけれど、君という指揮者がいなくなっては、立ち止まらざるを得ない」 「そうか」 僕はすぐに代替案を探した。 「今補佐をしているミサトさんを、僕と同等の権限を持つ相談役にする。時間があれば僕が対応するけれど、イベントとVRChatについて熟知しているミサトさんなら、僕と同じ判断を下すだろう」 ユノが平らかな声を出す。 「そうだね。ひとまずそれでいいと思う」 僕はユノに礼を言って、通話を終えた。すぐにミサトにメールし、相談役について合意を取りつけたあと、サーバーに通知した。 いくらか肩の荷が下りて、実際にイベントにまつわる業務も減った。ミサトはマネージャーとして優秀で、その判断は無欠だった。僕のオーナー、顔役という側面はますます強くなり、それは少し寂しかった。 イベントのコンセプトを掲げ、守るための重要な判断を下す。 あのときユノはもっと他に懸念を抱えていたはずだ。それをミサトをはじめとする他のメンバーには打ち明けたかもしれない。彼は僕に言わないことにした。僕はそれを尊重した。その判断は妥当だった。 問題の芽は摘み取る。表出していないものには対処しない。不安や、噂話に留まるものなど。 そのときの僕は、そんなふうに考えるようになっていた。
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新しく接客担当のスタッフを面接した。彼の名前はトワといった。 若く意欲的で、年上との接し方が上手い青年だった。リアルでは接客業をしている学生らしい。声とアバターの雰囲気は柔らかく、誰からも好かれそうな印象を受けた。 そして彼もまた、僕に憧れているという志望動機を話した。 「ウラタロさんの、スタッフも含めた参加者が主役であるという理念に共感しました。孤独だった時期にこのイベントに救われて、VRChatの中で居場所を得たんです。今度は僕が、それを提供する側に立ちたいと考えました」 ウラタロさんたちと一緒に。 落とす理由はなかった。彼のモチベーションに応えたいという点で、ミサトと僕の意見は一致した。採用の決定を下し、彼の教育をミサトをはじめとするスタッフたちに任せた。 トワの言に感じたのは嬉しさだけではない。しかしその違和感は、仲間たちの間で彼が成長しながら解決していけることだと信じた。この世界には救われたいから救う人が多い。けれども行動しなければ、その澱を自覚するきっかけさえつかめないのだ。 最初は問題なかった。新しく採用したスタッフの中でも、トワは高いパフォーマンスを発揮した。世界観への正しい理解に裏打ちされた丁寧な接客は、客から好評だった。他のスタッフとの連携も素早く柔軟で、天性の愛嬌もあり周囲からかわいがられた。彼がイベント内で一目置かれた存在になるのに、時間はかからなかった。 トワの活躍を、僕はバックヤードから見ていた。イベント中はデスクトップモードで全員の動向を把握し、会議中は彼が積極的に発言するのを聞く。時間に余裕のある限り、その場にいる全員に声をかけるようにした。誰かを特別扱いすることなく、オーナーらしく、平等に。 事務作業に追われることはなくなった。相談役もミサトに任せている。だからこそ、あなたのことを見ていると、メンバー一人一人に伝えたかった。 Unityのバージョン移行が完了し、満を持してワールドをアップデートした頃、こんな話がミサトから上がった。 「トワくんからイベントを収益化しないかと個別で相談を受けました」 「収益化? どうして」 寝耳に水だった僕は、率直に聞き返した。Discordがミサトの冷静な声を届ける。 「高クオリティなイベントの維持のために、現在ウラタロさん個人にワールド制作費や宣伝費を負担していただいているところを、収益で埋め合わせたいそうです。ワールドのコンセプトブックや、スタッフのグッズ販売を提案しています」 ミサトは僕の判断に見当がついているようだった。僕は一拍置いてそれを伝える。 「トワくんの気遣いはありがたい。その上で僕の結論を述べさせてもらうと」 「はい」 「収益化はしない。金銭が絡むと配分や透明性に不満が出る。イベント内ではよくても、お客様の心証まではコントロールできない。そのようなリスクを負うくらいなら、僕が出し続けたほうが遥かに管理しやすい。今のところそれで、誰も困っていないのだし」 本当に困っていなかった。だからミサトも同意し、こう続けた。 「ただ、トワくんの狙いはよりイベントを広めたいというところにもあるようです」 「イベントを愛してくれているんだね」 「そうですね……。その点ではグッズ販売は方法として適切ですが、そもそもそれにリソースを割いてイベント本番が疎かになってはいけません。ウラタロさんと私を含め、管理側もこれ以上のタスクを抱えきれませんから」 僕たちは毎回が本番のイベントには対応できる。成果への反応を直接客から受け取り、続けるモチベーションをもらえるからだ。 しかし、裏側で制作を進めるとなると話は変わってくる。今まで制作を行っていたスタッフでは、グッズの制作までは手が回らない。接客担当のスタッフたちに仕事を割り振って、締め切りのことで信頼を損なうようなことがあっては、元も子もない。 これは僕たちが愛する仲間と一緒にいるために始めた物語だからだ。 「申し訳ないけれど、トワくんには断りのメッセージを送っておいて」 「承知しました」 「いつもありがとうね、ミサトさん」 画面の向こうで、無欠のマネージャーが笑った気配がした。 「ウラタロさんにそう言っていただければ、どうってことないですよ」 後日、イベントの終了後にトワに声をかけた。アイデアを採用できなかったことを詫びると、「こちらこそ聞いていただきありがとうございました」と明るく返された。ちょうど彼と同期の子たちもいたので、いい機会だと思い改めてイベントに対する僕の考えを話した。彼らは聞き入り、共感してくれていたように思う。 高いモチベーションや能力は、かえって周囲との軋轢を生む。これは当人のせいではなく、構造ゆえに避けられないことだ。 だから僕たちは話をする。なんでもない雑談をして、互いの心を毛繕いする。能力とは関係ないところで楽しさを共有できれば、壁など気にならないはずだ。 それを僕自身が、一人一人と話して実践する。こうしてイベントのあとに、ふざけ合いながら。笑い合いながら。 ここでは僕らは、何者でもないのだから。 聡いトワの瞳が放つ光を、僕は希望の象徴と信じていた。
◇
また、トワから提案があった。彼が書いた企画書を前に、ミサトが淡々と話す。 「スタッフの接客力向上のために、講習会を開きたいそうです。古参はすでにスタイルを確立しているのでともかく、彼の言うとおり新人の中には不慣れな子もいます。イベントの志望理由が会話術の向上だったスタッフもいますし、トワくんの能力を他のメンバーに還元できるなら、いい機会ではないでしょうか」 ミサトがそう言うときは、僕の意見も同じだった。 「そうだね。今回はトワくんに任せてみよう。実践メインで個別にフィードバックをするみたいだし、教わる側もやりがいがありそうだ」 「そうですね。決定の返事を書きます。ウラタロさんも出席されますか?」 「というと?」 「そのほうが、トワくんが喜ぶと思うので。もちろん私も出席します」 この人の優しさが多くの人に理解されていればいい、と僕は思った。 「一緒に行こう。楽しみだな。僕も教える側に回ろうかな?」 キーボードを叩きながら、ミサトが言う。 「ウラタロさんはやめておいたほうがいいですよ」 「というと?」 「あなたのやり方は、相手に寄り添いすぎるので」 乾いた笑いが漏れた。 「確かに、僕以外だと危険かもしれないな」 ミサトは何も言わなかった。 後日、講習会が開かれた。用事があるスタッフ以外はほぼ全員が集まり、トワによる手ほどきを受けた。 まず一人の受講者を相手に手本を見せたあと、トワは接客の要点を押さえて説明をした。相手の話に耳を傾けること。話題を展開していくこと。どんな言葉にも応じ、決して遮らないこと。実力に裏打ちされた会話術を惜しげもなく授ける姿は、とても二十歳の学生には見えなかった。 彼は参加したスタッフたちに接客と客役の両方をローテーションでやらせ、彼らの感想や要望を聞きながら丁寧にフィードバックした。熟練スタッフの意見を受け入れ、些細な質問にも根拠を添えて回答する。それらのすべてが実体験に基づいているのだろう。一朝一夕で身につくスキルではないことが窺えた。 講習会は一時間で終了した。場には白熱の余韻と達成感が確かに漂っていて、トワの前にはさらなるアドバイスを求めて受講者たちが列をなしていた。ミサトをはじめとする古参たちと僕は、少し離れたところで接客やイベント経験について振り返る雑談をしていた。何度かトワと目が合い、列がなくなると僕とミサトは彼に話しかけに行った。 「お疲れ様です」 トワは溌剌として頭を下げた。 「お疲れ様。今日はありがとう。とてもいい講習だったよ」 「ありがとうございます。皆さんの熱意が高くて、僕も楽しかったです。ミサトさんも、相談に乗ってもらってありがとうございました」 「いいえ、私は何もしていません」 僕が睨むと、ミサトが付け足した。 「トワくんの頑張りあってこそです」 「ありがとうございます!」 トワはリアルで体育会系だろう、と僕は直感した。落ち着いて質問する。 「次回の開催って考えていたりする? もちろんトワくんがやりたければで構わない。うちのイベントはロールプレイ要素があるし、世界観の補強も扱ってもらえたら嬉しいんだ」 トワの喜びがフルボディトラッキングを通して伝わってきた。 「ウラタロさんからそんなことを言っていただけるなんて……願ってもないことです! ぜひやらせてください!」 僕は大きく頷き、ミサトとトワの顔を交互に見る。 「ありがとう。それじゃあ、次回について引き続きミサトさんと相談してほしい。ワールドや各スタッフの設定はサーバーにまとまっているものを参照して、分からないことがあれば質問してね」 「分かりました。ミサトさん、引き続きよろしくお願いします!」 「よろしくお願いします。くれぐれも無理のない範囲で進めるようにしてくださいね」 ミサトの最大限の気遣いに、トワは軽やかに答えた。 「大丈夫ですよ。イベントのためなら、無理なんてないです」 僕と同じ想いを、僕の背中を見た後輩が口にしている。このイベントに救われて、今度は救いたいと願った青年が。 僕は感慨深く、目の前のアバターを見つめた。そういえば、トワを面接した日、彼の耳に僕のメインカラーと同じ色のピアスが付いていたのを、思い出した。
◇ 第二回、第三回の講習に僕は参加しなかった。 期末が迫る中、担当エリアの数字が伸び悩んでいた。金曜の夜に届いた上司からの修正依頼を、土曜の午前中に片付ける。講習は土曜の夜に開かれることが多く、僕はその時間、リビングの机で見積書の桁を数え直していた。 講習会の報告はサーバーに上がる。参加者たちの写ったスクリーンショット、感想、次回への要望。第二回では僕の願いどおりトワがロールプレイの基礎を伝授し、第三回ではロールプレイの応用とトラブル対応について学んだらしい。 記録に目を通す限り、講習会は順調に進んでいた。トワたちへの労いを込め、お辞儀のスタンプを押す。これまでどおり、既読の印だけでも、彼らは僕からの気持ちを受け取ってくれると信じていた。 ミサトから通話の要請があったのは、第三回の講習の三日後だった。 普段、彼女との連絡はメールで完結している。それらの簡潔な確認を済ませると、同じ調子で本題に入った。 「トワくんから相談がありました。講習会を全スタッフ必須にできないかと」 「必須か。どうしてだろう?」 身構えたまま訊く僕に、ミサトが説明する。 「講習会の参加率が回を重ねるごとに下がっています。第一回が二十一人、第三回が十三人。トワくんはスタッフのモチベーションの低下が気になるそうです。参加状況を記録し、イベント本番のシフトを組むときの参考にできないかという提案でした」 僕は短く息を吐いた。 「本番に参加してくれれば充分だと思うけどね。講習会だって、悩みのある人が参加すればいい。参加人数が落ち着いていくのは必然のことだ」 「おっしゃるとおりです。だから、お断りしました」 それでいい。講習会のことは、ミサトとトワの間で相談することになっている。 「ありがとう。僕も同じ判断をしたよ」 「恐れ入ります。トワくんも納得してくれました。参加率については、僕のやり方にも問題があるのかもしれないと」 「そんなことはないと思うけどな」 「私もそう思います。ただ……彼の要求レベルは高すぎます」 事実だとしても、ミサトがそのような言い方をするのは珍しかった。 「どうしてだと思う?」 「イベントのためだというのは理解できます。けれどもこちらとしては、理念に反している提案は却下せざるを得ません」 矢面に立っているのに、ミサトはトワに寄り添っている。他のメンバーの事情を無視しているのはトワのほうだ。 僕はできるだけ中立的な声を出した。 「そうだね。僕も含め、うちはリアル優先が原則だ」 「そうですね」 「それに……僕は別のことを考えていたよ」 「と言いますと?」 「トワくんが頑張りすぎてしまうのは、自信のなさの裏返しだと思う。みんなの役に立つことで、その場にいてもいいと思われたいんだ。実際の能力は関係がない。目に見える成果だけが、彼の不安を解消するんだよ」 「ずいぶん、お詳しいですね」 「場を作った人間らしいだろう?」 ミサトが少し笑った。 「他人が楽しんでいる様子を見るのが好きな方だと思っていました」 それも当たっている。けれども遡れば、もっと素朴な原体験がある。 「昔体が弱くて、みんなに交じって遊べなかった。だから指示役をしたんだ。遊びを考えたり、どこに砂を運べばいいか教えたり」 ミサトは黙って聞いていた。子供の頃の話を、誰かにするのは初めてだった。イベントを作るきっかけになった光景が、その手触りごと鮮やかに蘇る。 「そうしているうちに、指示自体も、それで楽しんでもらえることも、好きになった。友達のおかげだよ。当時から今に至るまで、一緒に遊んでくれる人には感謝している」 回想から目覚めれば、そこは一人暮らしのマンションの一室だ。高価なデスクトップパソコンのファンが回っていて、モニターの中から、ミサトのアイコンが僕を見つめ返している。 「聴かせていただいて、ありがとうございます」 温かい声で言われ、僕は途端に気恥ずかしくなって、「いえいえ」と返した。 「分かりました。ウラタロさんから、トワくんに声をかけてあげてくれませんか?」 もうミサトは普段の調子に戻っていた。僕も歯切れよく答える。 「そのつもりだ。ミサトさんも、いつもフォローありがとう」 「滅相もないです」 ミサトのキーボードが軽快に鳴る。僕たちはそれから二言三言交わしたあと、通話を切った。 僕はすぐにトワにメールを書いた。 講習会開催への感謝を伝え、サーバーで読んだり人づてに聞いたりした素晴らしい内容に対する称賛を送った。講習でロールプレイを扱ってくれたことにも触れ、最後に、参加率のことは気にせず、無理をしないでトワ自身も楽しんでほしいと、偽らざる本心を綴った。 トワからの返信は、翌日に来た。 帰宅途上の電車内でアプリを開くと、長く、密度の高い文章が表示された。まず連絡への感謝と自分の至らなさを伝え、講習会では手応えも楽しさも感じていると書いていた。今後のやり方について案をいくつか出し、自分の意見と目的を述べている。このようなメールをスタッフからもらえる僕は果報者だと、胸が熱くなった。 瑞々しく迸る熱意が、昨日の僕とミサトの会話を杞憂に終わらせるかに思えた。束の間、メールの最後のほうで、わずかな引っかかりを覚えた。 『ミサトさんにもご相談しましたが、ウラタロさんのお考えが聞けてよかったです』 礼儀正しい一文だ。おかしいところはない。しかしその位置のために、どこかミサトの回答を軽んじているような印象を受けた。 気のせいだ。僕は読書家として、文脈を気にしすぎるきらいがある。 ただ、もう一文については、どうしても思い出せなかった。 『僕がこのイベントに初めて来た日のことを、昨日のことのように憶えています』 トワが指しているのは、いつのことだろう。記憶は薄れるが、それでも来てくれた客のことは忘れない。彼の言葉から受け取るべき嬉しさよりも、思い出せない申し訳なさのほうが勝った。 電車が揺れる。指がスマートフォンの画面をタップし、ウィンドウを閉じてしまう。 自宅の最寄り駅に停車するとアナウンスが流れ、人が動いていく。 僕もスマートフォンをポケットに入れると、鞄を持ち直してドアに向かった。
◇ 定例会議は月に二度、イベント本番の翌週に開いている。 スタッフ用のワールドは会議室を模した簡素な造りで、長机が三つ並び、正面にスクリーンがある。ユノが初期に作ったもので、三年間ずっと使っていた。装飾のないその部屋が僕は好きだった。皆イベントとは関係のない、普段使っているアバターで会議に参加している。 その日の議題は、クリスマスイベントの広報と当日のシフトについてだった。出勤可能日はすでにスタッフたちから申告してもらっている。これを基にインスタンスを割り振り、SNS向けのポスターを作成するのだ。 ミサトがスクリーンに表を共有し、読み上げる。 「今年も十二月第二土曜と、第四土曜に実施します。第四について少し人数が足りませんが、ここは私と古参、新人たちで回します」 僕は頷いた。イベントに需要がある年末において、スタッフの集まりが悪くなるのは疑問を差し挟む余地のないことだ。リアルで仕事が忙しく、人と会う用事が生じる時期だ。このイベントがVRChatの中でそれなりに大きな規模だとしても、他の用事を差し置く理由にはならない。 毎年のこと。スタッフは皆承知している。そうやって運用していくものだと納得している。 「あの」 一人を除いて。 「どうぞ」 ミサトが声を上げたスタッフに手を差し出す。トワは落ち着いた声で言った。 「まず、僕の理解が足りなかったらすみません。その上で申し上げたいのですが」 しんとした室内に、二人の会話だけが響く。 「はい」 「せっかくのクリスマスイベントです。すでに出勤可能日を申告いただいているスタッフはともかく、未提出の方には促して、参加人数を確保できないでしょうか」 場の空気がわずかに硬くなる。ミサトは平坦に答えた。 「催促はいたしません。未提出であることが彼らの答えです」 トワは丁寧な口調のまま食い下がる。 「申告を忘れているだけかもしれません。第四土曜、僕の知る限り二名は空いています。クリスマスなのに予定がないと言っていたからはっきりしています」 自分の発言の裏付けをしたつもりだろうが、それによって他人の印象が操作されたことに、トワは気づかないのだろうか。あるいは彼自身に、同僚たちの悪意なき手落ちを責める意図があったのだろうか。 分からない。誰かが小さく咳払いをする。ミサトがきっぱりと言う。 「催促は行いません。今まで行ってきませんでしたし、ここで例外を認めれば、私か、後任のマネージャーのタスクが増えます」 「じゃあ、僕が未提出者に声をかける係をやります」 トワの声は明るく、張り詰めていた。 「表をチェックしてメッセージを送るだけなので、負担じゃありません」 ミサトは一呼吸置き、静かに言う。 「お申し出ありがとうございます。その上で、結論は変わりません」 「ミサトさんは、彼らの怠慢を見過ごすんですか」 トワは打って変わって低い声を出した。 「スタッフをやりたいと言って入ってきた人間が、予定が空いているのにもかかわらずイベントに参加しないんです。そもそもその申告すらしない。僕には、いい大人のすることとは思えません」 「トワくん」 ミサトを無視し、トワは全員に向かって主張した。 「僕らが本気じゃなければ、来てくれるお客様に失礼です。急にペナルティを科すわけじゃありません。ただ、そのモチベーションを測る機会はあっていいと思います。スタッフの能力は、僕が講習会で判断できますから」 「トワくん」 今度こそ彼は沈黙した。彼は名前を呼んだ僕を、ウラタロを、穴のあくほど見つめた。 「熱意があるのはいいことだ。でも、みんなそれぞれ歩幅は違う。さっきみたいな言い方は控えてほしいな」 隅のほうで新人が俯いている。それにトワも気づいたのか、蚊の鳴くような声で「すみません」と謝った。 「ミサトさん」 「はい」 マネージャーを呼ぶと、変わらぬ声色が返ってきた。 「この件は君に預ける。トワくんとは後日、個別に話してほしい」 「承知しました」 ゆっくりと、魂の抜けたようにトワが座る。彼は項垂れ、隣の古参が口にした「楽しくやろう」という励ましにも、反応しなかった。 ミサトがスクリーンを切り替え、議題は広報に移る。彼女がポスターの入稿期限と、告知の投稿日を読み上げる。特に意見が上がることはなく、全員の合意が取れ、この日の会議も予定どおり終了した。 解散後、座ったままのトワに何人かが声をかけていた。ミサトは議事録をまとめるからとすぐにログアウトしていった。いつものことだが、今日は彼女のトワに対する気遣いが滲んでいるような気がした。 会議室には、僕とトワと、ユノが残った。ユノの性格から察するに、彼は僕たち両方を心配してくれているのだろう。 「ウラタロさん」 僕のそばに来たトワの声は震えていた。僕は温かい笑顔を浮かべる。 「お疲れ様、トワくん」 「先ほどは場を乱してしまい、申し訳ありませんでした」 哀れなほど憔悴して、彼は頭を下げた。普段の自信に満ち溢れた姿が反転したようで、僕は自分の推理が正しかったことを知る。 「大丈夫だよ。意見を出してくれてありがとうね」 僕は自分の声の温度を丁寧に測りながら答えた。ユノの視線を感じる。トワは息を詰まらせて言った。 「でも僕、みんなの前でミサトさんを」 「ミサトさんは怒らないよ。仕事と感情を切り分けられる人だからね。気になるなら、トワくんから謝るといい」 本当に謝るべき対象は、他のメンバーたちだ。引っかかりはしたが、ここで僕が指摘することはない。僕はすでに全員の前でトワを叱った。トワが変わっていけるかは、彼自身に委ねられている。 しかし、トワは続けた。 「僕は、間違っていますか」 目の前の青年が求めているのが許しだと分かり、僕は即座に「間違ってないよ」と答えた。 「トワくんの提案は筋が通っている。君の意見を聞くたびに、イベントのことをよく考えてくれていて嬉しいな、こんなスタッフがいて幸せだな、と思うんだ。本当にね。でも」 「はい」 僕ははっきりと告げた。 「みんなに同じ熱意は求められない。ここは会社じゃないからね」 真剣なトワだから、同じものを返した。耳の痛い話に聞こえるかもしれない。けれども強い志を持つ若い彼ならば、受け入れてくれる。そうしていつか僕に新しい景色を見せてくれるだろうと期待を込めていた。 「趣味だから」 トワが、かすれた声で呟く。まるで、傍らに僕らがいないかのように。 「趣味だから、本気でやるんじゃないですか」 答えに窮する僕の代わりに、ユノが言った。 「トワくん、俺たちが言ってるのは、他人に苦しさは強制できないってことなの。会社じゃないから、一緒に作ってて楽しくなかったら、やる理由はない」 そもそも俺たちはこのイベントでお金をもらっていない。 「そう、ですね」 トワの吐く息が浅い。腿に置かれた指先が、かすかに跳ねている。 僕は彼の気が軽くなればと思い、提案した。 「講習会、少し間隔を空けてもいいんじゃないかな。月一回でも充分だと思うよ」 返事が発せられるまでに、わずかな沈黙が生じた。言葉を吟味しているように見えた。 後に何度もその意味を問うことになる。 「大丈夫です」 顔を上げたトワは、普段どおりの調子に戻っていた。 「僕がやりたくてやっていることなので。心配しないでください」 その明るさに、僕は愚かにも安堵した。善なる、本来の彼が戻ってきたのだと、馬鹿みたいに「分かった。何かあったらいつでも言って」と答えた。 トワは丁寧に挨拶をして、会議室から出ていく。そのままログアウトした。 「まあ、今日のところはああ言うしかない」 同じ方向を見ていたユノが、僕に向き直って言った。 「ありがとうね、ユノさん。いてくれて助かったよ」 「いや」 ユノは別のことを考えているようだった。 「あの子、いつからああなった?」 僕はできるだけ正確に思い出そうとする。すべては最初の場面に行き着く。 「面接のときから、周りとは違っていた。ここでやりたいことを誰よりもはっきり示してくれた」 うんうん、とユノが相づちを打つ。 「可能性と同時に危うさを感じたよ。でも相手の目線に合わせられるようになれば、トワくんは化ける……無敵のスタッフになると思ったんだ」 一年近く彼を見てきて、当時よりも、その確信は強くなっている。トワは客に対しては柔軟に接している。仲間との協調を身につければ、彼はかえって息がしやすくなったことに気づくだろう。 聞き終えたユノは、丁重に、鋭く指摘した。 「ウラタロさんの判断を疑うわけじゃない。その上で言わせてもらうけど、彼のこと、うちには過ぎた人材だと思わなかった?」 「思ったよ。だから彼の採用は、その欠点込みだ」 即答し、僕にとって定義のように不変なる真実を、口にする。 「何より、うちがいいと言ってくれたんだ。そんな志望者を断ることは僕にはできない」 「そうか」 ユノはそれ以上訊かなかった。代わりに、少し間を置いて言った。 「言おうと思ったことがある。が、今はやめておく」 「そう?」 ユノの答えは明瞭で、穏やかだった。 「まだ俺のほうで抱えておくよ。今のウラタロさんには、重すぎるから」 時折彼が示す驚くほどの愛情深さは、しかし当人に自覚されない。僕が受け取ったものに感謝して、心から告げた。 「ユノさんのそういうところ、僕は好きだ」 「この人たらしめ」 ユノは皮肉めいて返すと、立ち上がった。 「じゃ、俺はこのあたりで失礼するよ」 「お疲れ様」 「お疲れ」 彼のアバターが目の前で消える。インスタンスは僕だけになる。 誰もいなくなった会議室を見渡す。飾らない内装は、今まで重ねてきた話し合いの数々を、圧縮して思い出させた。 意見の擦り合わせも、問題提起も経験した。それらを経て現在のイベントがあり、今日のトワとミサトの対立も、僕たちの未来に繋がっていく。 課題はミサトに預けた。トワにも期待している。必要な手順は踏み、判断にも遊びを持たせた。何か起きても解決に向けて動ける。 僕の中で固定した感情の隙間から、誰のものでもない声が問いかける。 本当にそれでいいのかと。 僕は声を振り払った。リアルも多忙で、疲れているだけだ。VRも含め繁忙期を前にして、緊張しているだけだろう。 明日も仕事だ。早く眠ろう。 永遠に明るいままの部屋を去る。ディスプレイの暗転したHMDのベルトを緩め、頭から外す。 床の上に、書類で膨らんだビジネスバッグが、一時間前と同じ姿で置かれていた。 ◇
トワからのメールが届いたのは、会議から四日後、金曜の深夜のことだった。 上司に同行しての往復四時間の出張は、僕から体力と気力を根こそぎ奪っていた。躓きながら靴を脱ぎ、リビングに入ってビジネスバッグを床に置く。ワイシャツのままソファに座ると、どこまでも体が沈み込んでいく気がした。 まどろみの中、スマートフォンの振動に目を覚ます。反射的に手に取ると、たくさんのメールの先頭に、美少女のアイコンとハンドルネームが表示されていた。 ダイレクトメッセージは、トワからのものだ。僕はそれを、何気なく読み始めた。
『ウラタロさん お疲れ様です。 先日は会議でお見苦しいところをお見せし、大変失礼いたしました。あれからミサトさんと相談して、シフトの件に関する僕の提案は白紙に戻しました。以降一切触れないと取り決めました。 きっと、お耳に入っていますよね。ミサトさんは、ウラタロさんのいないところでも、ウラタロさんと同じ判断をされます。すべてお二人の間で共有されているのだと思います。とても仕事のできる方たちだと尊敬しております。 その上で、どうしても直接、ウラタロさんにお伝えしたいことがございます。 長くなりますが、最後まで読んでいただけますと幸いです。
ウラタロさんもご存じのとおり、僕は今まで、いくつかイベントの運営に関する提案をしてきました。 受け入れられたものもあり、受け入れられなかったものもありました。組織に入って一年も経っていない僕の意見を聞いていただいたことには、深く感謝しています。 受け入れられた、講習会の件について、まず触れたいと思います。
講習会の参加人数は、回を重ねるごとに減少しています。ウラタロさんが参加された初回は、古参の方も来てくれて、僕にも、皆さんにとってもいい刺激になった印象がありました。参加してくださる方の熱意に応えたいと思い、僕は引き続き講習の内容を練って、第二回に臨みました。 第二回では、ロールプレイについて扱ったこともあり、熟練を求めるスタッフの方が技術を磨くお手伝いをできたと自負しております。何人かは、少しふざけていました。けれども、彼らが何か持ち帰ってくれればと思い、第三回に向けても準備をしました。 第三回は、初回に対して参加人数は半分ほどに減っていました。面子が固定され、和気藹々とした雰囲気が漂っていました。題材がトラブル対応ということで、ここぞとばかりに、迷惑客を演じる方が続きました。彼らは彼らの間で、笑いを取り、僕も現実にあり得るパターンに落とし込んで、対策を教えました。 第四回は、参加者がふざけることを避けるため、実際に起こり得るトラブルのパターンを用意しました。前回のような笑いが起きることはなく、ごく真面目に取り組んでくれたと思います。しかし彼らの反応は薄く、この回で学んだことが生かされている場面を、僕はイベント中に見たことがありません。 第五回は、敬語とお客様との距離感について。事前課題を出して、当日までに回答を用意してくれたのは三人でした。あとの二人はアドリブで、残り一人はしどろもどろでした。彼らはかえって即興を楽しんでいるようでしたが、その無軌道さが未熟な接客に繋がっていることにどうして気づかないのかと、僕は内心思っていました。 第六回は、イベントの世界観について扱いました。実践形式に疲れていたのです。だから座学を実施しました。ユノさんに取材してハンドアウトをまとめ、講習会の四日前に配布しました。当日欠席、遅刻、途中退室がそれぞれ一名ずつでした。残り三名は最後まで聞いてくれましたが、うち一人が僕の知識に対して、「詳しいね」と言いました。どうしてそんなことが言えるのかと、僕は疑問に思いました。ウラタロさんが創った世界を共有しているはずなのに、まるで他人事です。ウラタロさんに失礼です。 第七回の参加者は、四人でした。時間がありましたので、丁寧にフィードバックしました。その中で、僕は前々から遊びたがる参加者に対し、何度説明しても理解してもらえないということを経験しました。他の参加者も、彼を諫めることなく、次第に焦って同じ話を繰り返す僕をなだめ始めました。 意味が分かりませんでした。頭がおかしくなりそうでした。それ以上に、とてもさみしかった。 そのとき僕には味方がいなくて、でも分かってもらいたくて、一人で馬鹿みたいに、喋り続けていました。 あなたたちのためにやっているとは言わない。楽しむなとは言わない。 でも、どうして人の気持ちを受け取ってくれないんですか? 相手の立場に立って想像できないんですか? あなたたちは僕に歩幅を合わせてとか他人に強いるなとか言うけれど、僕には苦しみを、誰にも理解されない孤独を強いるんですか? いいんです。僕は、本気だから。 このイベントのためならば、どんな苦しみも引き受けるつもりで、スタッフになったから。 それを思い出して、第七回は、彼らの要求に応えて終了しました。次回以降の楽しいプログラムを約束し、それをサーバーに報告を兼ねて上げました。僕の苦しみは誰も知りません。ミサトさんも知りません。 ただ、ウラタロさん。あなたにだけは、知ってほしいと思った。 あなたが、このイベントで唯一、本気だから。産みの苦しみは、接客の苦しみは、痛いほどよく分かります。現実のために夢を阻害されることも、夢のために現実を退けることも、どちらも同じくらい苦しい。 ここではあなただけが、それを引き受けている。 僕がこのイベントに初めて来た日のことを、昨日のことのように憶えています。 その頃の僕は高校を中退し、新たな進路のためにお金を稼がなければなりませんでした。家に居場所はなく、起きている時間のほとんどをアルバイトに費やしていました。 高い給料に惹かれ、お客様を楽しませる仕事を始めました。僕が接客を学んだのはそこです。厳しい世界で、僕はいなくなってしまいたくなりました。 自傷行為のために、僕は店をクビになりました。同じような接客で、インターネットを介し稼げる仕事を探しました。このような傷があると、お客様の前に立てません。給料に対する一般的な感覚も麻痺していました。 僕に需要のありそうな界隈は、YouTubeで見つかりました。 VRChat。そこでは、大人たちがきらびやかな夜の世界を再現して楽しんでいます。別のプラットフォームに誘導して、金銭や贈り物を受け取るユーザーもいるようです。 僕は、これになろうと思いました。 誰も助けてくれない。誰も見てくれない。傷だらけになった僕を汚いと蔑み、踏みつけ、僕のすべてを奪おうとする。 だから僕が奪う側になっても仕方ないだろうと、そう思ったのです。 アカウントを作り、Publicを徘徊してフレンドを増やします。簡単でした。僕は人と話すのが上手いから。 ユーザーランクが上がるとアバターをアップロードし、接客型イベントに潜入しました。 VRChatを知ったきっかけの、動画で取材されていたイベントです。他に知らなかった。僕は馬鹿なんですかね。きっとそうです。だって搾取する相手なら別の場所で探したほうがいいのに、よりにもよって、優しくて正しい人たちばかりのイベントに、行ってしまうなんて。 ノクティスラ。 ここです。 ウラタロさん。あなたのイベントです。』