にんぎょの筺

融ける境界

 チョコレートとスポンジの層をフォークで断ち切り、クリームとともにすくい上げて口に運ぶ。舌の上に残った甘みを熱い紅茶で溶かすときに芽生える感覚を、人間も覚えたのだろうかと思う。  こぢんまりとしたカフェの店内は、調度品の色調と年代が統一され、機能は最小限に留められている。集まって遊ぶのには適さないが、落ち着いて雰囲気を楽しむのには向いたワールドだ。  隣にマシロが座っている。彼女は白く長い髪にスカートのセットアップを着た少女のアバターだ。ピンク色のロマンティックなソファにシックな彼女の装いはよく似合っていた。  マシロは珍しいものを見るように、俺の動作ひとつひとつを目で追う。人間の間でその行為はマナー違反だ、ということを俺は言わない。この世界の誰も言わないだろう。俺たちはアバターなのだから。 「レンって」  咀嚼の合間に、マシロが質問する。しっとりとしたBGMと、彼女の透き通った声が調和する。 「ワールドにある食べ物よく食べてるよね。私たちおなか空かないのに」  俺はティーカップをローテーブルに置いて答えた。 「味が気になるからな。百年の間にほとんど食べたとはいえ、昔食ったやつは記憶が薄れてるし」  マシロは不意に、顔を歪める。白く塗られた壁の一点を見つめ、俺に視線を戻す。 「ごめん、今思い出した。こんな話、前にもしたよね」  俺の記憶では、出会って間もないころだ。気にすることはない、と笑う。 「何年も前だよ。記憶は薄れやすい。また体験してみればいいよ」 「うん。一個取ってくる」 「いってら」  彼女が入り口のショーウィンドウにケーキを取りに行っている間に、俺はマシロのぶんの紅茶を用意する。ティーポットを傾ければ、カップは熱い液体でいっぱいになった。 「ありがとう」  マシロは湯気を立てる紅茶の隣に白いケーキを置く。座って、注意深くフォークを手に取った。 「ペンと同じだよ……そう、力は入れなくていい」  俺は少しだけ手を添えて教え、彼女が一口目を食べるのを見守る。マシロはかすかに瞠目し、唇に付いたクリームをなめ取った。 「初めて食べる味だ。いい匂いがする」 「お前匂いには敏感だよな」  マシロが黙々とケーキを食べる間、俺は横目で彼女を観察した。確かに、ものを食べている他人を観察するのは面白い。自分と同じものを食べているアバターなら尚更。 「おいしかった……。けど、こればかりだときつい」 「そんなお姫様に、こちらがお勧めです」  俺が示したティーカップを、マシロは持ち上げる。彼女は目を瞬かせ、適温になった紅茶を何口か飲んだ。 「組み合わせたほうがおいしい。でも」  ティーカップを置くと、マシロは少し残念そうに言った。 「どっちも私には刺激が強い。たまにでいいかな」 「俺もだよ。ケーキも紅茶も嗜好品だ。こういう場所は、たまに来て、だべるためにあるんだ」  マシロの視線は、カフェの中を一巡する。 「この世界にはカフェがたくさんあるよね。飲み屋も、レストランより数が多い。みんなそこで、食べるよりも話してる」  「この世界はコミュニケーションを取るために存在するからな。人間にとってもアバターにとっても、飲食物は場を成り立たせるためのパーツに過ぎない」 「そうか……」  マシロは深く納得したように声を沈ませた。 「ん?」 「知識として知ってはいたけど、実感できたのは初めてだ」  そうして、彼女はしばらく目を閉じた。 「貴重な瞬間に立ち会えて光栄だよ」 「レン」  振り向くと、輝く瞳と目が合った。 「誘ってくれてありがとう」  俺は手を振って顔を背ける。  「よせやい。俺は一人でものを食うのが嫌いなだけだ」 「食事はレンの趣味じゃないの?」  不思議そうに問われ、自分でも首を傾げる。根付いた習慣を、正確に言葉で写し取ろうと試みる。 「そうなんだけど……一人で食っても虚しいからな。元々必要のない行為に言ってもしょうがないけど」 「人間と同じように……体験をともにすることに価値を感じているの?」 「たぶんな。でも味に興味があるのは本当だから、楽しみに占める割合は半々だよ」  再びフォークを手に取り、ケーキを切る。マシロは感心したようにため息をついた。 「素敵だな。私は自分の趣味にそう思えたことがない」 「前はワールド巡りと読書が好きだったよな。最近もしてるの?」  口に含んだクリームはわずかにぬるい。マシロの小さな顎が上を向く。考えるときの癖だ。 「一人のときはね。でも会話のネタにすることは……ほぼない。なんでだろう? ワールドと本の向こうにいる、人間を見ているから?」 「お前が人間を好きなのは、みんな知ってるよ」  みんなといるときのマシロは、場の空気に同調し、波風を立てることはない。社会的な生き物である人間に憧れているため、と俺は勝手に推察している。もしかしたら本人から聞いたことがあるのかもしれない。いかにもマシロらしい、優等生じみた思考だ。 「実は、心が狭いんじゃないかと心配になることがあるよ」  だから、マシロがそう言って俺は驚いた。 「お前が?」  ごくりとケーキを飲み下して問うと、マシロはきっぱりと答えた。 「うん。大事なものを共有したくないのって、たとえばホールケーキを独り占めしようとするみたいじゃない?」 「ケーキなら分け合うだろ。ケーキは、物質であって心じゃない」  マシロは遠くを見ていた。ポリゴンで成形され、白いテクスチャを貼られ、刷毛の質感のマテリアルを設定された、カフェの壁の遠く向こうを。 「そうだね……。心はリスポーンしない。この体はいつか人間に返すけど、心だけは私のもの」  それは普段からマシロが考えていることだった。ごく一端だが、彼女がそれをとても大事にしているのが分かる。大事にしているから、安易に他人に見せようとしない。  それでいいではないか。内側はどうあれ、君は今俺といることを選択してくれているのだから。 「俺はお前が、俺たちと一緒にいてくれるだけで嬉しいよ」  格好付けずに言うと、マシロが笑った。そうして、俺のケーキを指す。 「一口もらっていい? ずっと味が気になってた」 「いいよ」  俺はケーキを大きめに切り取り、マシロの口に運ぶ。甘い断層を飲み込んだ薄い唇が蠢いて、美しい弧を描いた。 「おいしい」  俺もはにかんで、彼女に顔を近づける。 「お前は、食べるのが下手くそだな」  マシロは抵抗せず、俺の口づけを受け入れた。 「とれた?」 「ああ」  唇の端を拭いながら、彼女は言う。 「さっきよりもおいしい」 「もう一回する?」 「うん」  他人と一緒に食べるのは気分がいい。体の一部を重ねるのは尚更。  相手が何者にも染まらないマシロだから、俺はそうしたいと思えるのだ。

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