人魚の檻

未来未来、ある海辺の村に、人魚がいた。 その村に名前はなく、ただ「海辺の村」とだけ呼ばれていた。『代替戦争』によって人口のほとんどを失った人類は緩やかな滅びに向かっており、前時代のロストテクノロジーを頼りに慎ましい生活を送っていた。 当然周りに大きな村も街もないのだから、その村に特別な名称は必要ない。村人たちは網漁で捕った魚を日々の糧とし、浜辺に流れ着いた流木を燃やして暖を取った。時折やってくる行商人には、干物と塩を差し出す代わりに、貴重な金属だの毛皮だのを交換してもらった。 この村に女はいなかった。代わりに人魚がいた。村の昔話によると、若い嫁が姑にいじめ抜かれたのを苦にして海に身を投げてから、村に女は生まれなくなったそうだ。それから村が面する海に人魚が棲むようになり、男たちの相手をするようになったと昔話は締めくくられている。 男たちはこの昔話を信じていた。なぜなら本当に自分たちは一人の人魚から産まれていて、成人を迎えた日にその人魚と交わるのだから。 人魚は女の上半身と、長い魚の下半身を持つ生き物だった。肌は白く、髪は黒い。化粧などしないのに、その唇はいつも血のように赤かった。人間の言葉を喋り、美しい声で歌った。男たちは最初彼女を母親として愛し、次に女として愛した。人魚は彼らに分け隔てなく接し、村に子宝をもたらした。 彼らの独自の生態と風俗に興味を持った学者が、村への滞在を望むことがあった。人魚の息子たちである村人は断固としてそれを拒否し、その日中に学者を追い返してしまう。強引に人魚に触れようとした学者は、翌日には冷たくなって海面に浮かんだ。 学者の身内が彼を探しに来ても、屈強な海の男たちの目を見れば引き返さざるを得ない。そもそも、先細りする人類に、他者と争うエネルギーは残されていないのだ。 ある日、村の入り口に少年が行き倒れていた。年の頃は十ほどで、枯れ木のように細い脚を砂の上に投げ出していた。村人たちは彼を介抱し、少年が目覚めると人魚のところへ連れて行った。瞠目する少年に人魚は微笑み、少年を村に迎えるようにと言った。 よそ者を嫌う村人たちだが、人魚のいうことは絶対だ。彼らは人魚の言いつけどおり、少年を手厚く世話し、自分たちの生きる術を授けた。最初は戸惑っていた少年も、次第に村に馴染み、男たちと漁に出るようになった。 そうして八年の歳月が流れた。 少年はミゼリという名を与えられ、たくましい漁師に成長した。鍛えるほどにしなやかに伸縮する彼の筋肉は、彼が誰よりも長く漁に出ることを可能にした。また、ミゼリは村人も知らない魚を、食べられるか、どんな処理が望ましいか見定める才覚があった。痩身の彼を見くびっていた村人たちも、彼の働きぶりを見て徐々に考えを改めた。 しかし、年若さゆえに他者を受け入れられない人間もいる。村に唯一のフネを管理する家の長男・アゴダは、ミゼリと同い年だった。体格がよく頭も切れるが、ミゼリのことをなにかと手荒く扱った。ミゼリはそのたびに、柔軟な肢体で美しい獣のように受け身を取る。それも、アゴダの気に入らないところだった。 ある日の漁は荒れていた。久しぶりの暖かい潮は大きな獲物を運んでくることが予想されたが、ゆえに波は高く、漁師たちを載せたフネは木の葉のように揺れた。その先端でアゴダは、大人たちの制止を聞かず網を手放さない。ひときわ高い波がフネを襲ったあと、彼の姿はフネの上になかった。近くにいたミゼリの姿も、消えていた。 大人たちは沈痛な面持ちで、村の大切な息子たちを喪ったことを人魚に報告した。彼女は膨らんだ腹を撫でる手を止め、震える目蓋を伏せた。人間よりも自在に泳げる体とはいえ、貴重な女体である彼女は、愛しい息子たちを助けに海へと泳ぎ出ることはできないのだ。 しかし、奇跡は起きた。アゴダとミゼリが荒波に消えてから二日後、村人の一人が凪いだ海に、見知った頭を見つけた。彼は最初目を疑ったが、近づいてくるそれは、アゴダを抱えてこちらに泳いでくるミゼリだった。 村人たちは総出で彼らを迎えた。ミゼリはアゴダの体を大人たちに預けると、ばったりと甲板に倒れ伏した。彼は丸一日眠り、起きると水と食料をたっぷり摂った。その席には彼に助けられたアゴダもいて、海水に洗われた赤い顔で、ミゼリに礼を言った。それから、彼はミゼリに特別な敬意を払うようになった。 ここまでは、ミゼリが成人するまでの話だ。 今年も、村の成人の儀が近づいていた。それは秋の深まるころ、丸一日かけて行われる。 その詳細を、村の少年たちが成人前に知ることはない。荒くれ者の漁師たちは、人魚のこととなると口をつぐみ、恥じらいにも似た表情で俯いてしまうのだ。酒の席で誰かが口を滑らせると、別の誰かが叱ることさえある。 少年たちにはその理由が分かる気がした。彼らは人魚にから産まれたあと男たちに育てられるが、成長の折に触れて母である人魚と顔を合わせることができる。ひととき目にする彼女の美しさと澄んだ声は、強烈な魅力と同時に侵しがたさに溢れているのだ。 村の外から来たミゼリも、同じ気持ちだった。 「好きな女がいるとして」 ある晴れた休日、ミゼリはアゴダと岩場にいた。ミゼリは海を見つめながら、隣にいるアゴダに話しかけた。 「他の男と共有しなきゃいけないなんて、俺はいやだよ。俺は一人の女だけを愛したいし、女にも俺だけ愛してほしい」 アゴダから返事が返ってこないのでミゼリが彼を振り返ると、アゴダは赤い顔に冷や汗を浮かべていた。 「それ、他のやつの前では言うんじゃないぞ」 押し殺すように彼は言った。ミゼリは眉を顰める。 「変かな」 「ああ……。そうだな」 アゴダは逡巡してから、身振りを交えて精一杯ミゼリに説明した。 「そう思うのも無理はない。でも、それを実現したら村が立ちゆかないし、発言するだけでも他のやつの反感を買う。そういった意味では、変だ。ただ、これはあまり言いたくないが……」 「俺がよそ者だからか」 「今じゃ誰もそう思わない」 アゴダは素早く、はっきりと否定した。 「そんなことを言うやつがいたら、俺が殺してやる」 「ありがとう」 今度はアゴダが、海を見つめた。漁のない日の海は、この星のほとんどの場所と同じ、自然そのものだ。 「お前がこの村から出て行くなら、そういった一対一の関係を、築けるだろう」 「なんでそんな寂しいことを言うんだ」 アゴダは少しだけ笑った。 「お前には、そういう選択肢もあると思ったが」 「俺は……お前も、この村も好きだ。人魚様も好きだ。ここから離れたくない。俺が言いたかったのは」 アゴダが振り向く。彼が言葉を発する前に、ミゼリは暴力的に、それを言い切ってしまう。 「人魚様を、俺だけのものにしたいということだ」
その日、村は今年の成人の儀を迎えた。 今年の成人は、ミゼリとアゴダの二人だけだった。もともと百人にも満たない村だ。今年はとりわけ少ないが、漁師として大きな期待を集める二人を祝うために、村人たちは何日も前から大がかりな儀式の準備をしていた。 儀式は村で唯一の、石造りの家で行われた。それは単に寄合所と呼ばれており、普段は村人たちが集まって大事な話し合いをするのに使われている。大小の部屋がいくつもあるが、ほとんどは使われていない。その地下に、人魚の住む水槽があった。 儀式は昼間から始まる。村人たちはアゴダとミゼリを上座にして、たくさんの食べ物と貴重な酒を運んでくる。成人の儀は年に一度の祭りだ。村人たちは自身も新鮮な海の幸を口に運びながら、新成人の二人に、もっと食え、もっと飲め、とごちそうを勧めてくる。 これから起こることに備えろ、と言っているのだ。 祝いの席で、アゴダとミゼリは言葉少なだった。 二人は話す代わりに、滅多に食べられない珍味や米を口にした。体の内側が火照り、活力が湧いてくるようだった。ミゼリが隣を見ると、アゴダの思慮深い頬に汗が滲んでいるのが見えた。 ああ、これからこの友と、同じ女と寝るのだな。 ミゼリは盛り上がる大人たちに気づかれないよう、翳る瞳を杯に沈ませた。 宴も終盤というころ、広間の外から村人が滑り込んできて、切羽詰まった様子でアゴダの父に耳打ちした。赤ら顔だったアゴダの父は一瞬青ざめ、村の重役たちとひそひそと話し合っている。 「なにかあったのかな」 ミゼリが小声でアゴダに問う。 「分からない」 それが妙に確かな響きだったので、ミゼリはアゴダをまっすぐに見つめる。その横顔は、怒っているようにも、なにかを決意しているようにも見えた。 ミゼリがアゴダを呼んだのと同時に、アゴダの父が立ち上がった。 「宴はこれにてお開き。これから新成人には、人魚様との営みに励んでもらう。しかし」 村人たちは不審そうにアゴダの父に注目する。 「今夜人魚様の寝所に入ることを許されたのは、ミゼリだけだ。落胆することはない。人魚様は気まぐれな女神だ。きっと、アゴダとの子宝ももたらしてくれることだろう」 朗々とした声でアゴダの父が話す。その間、広間には落胆の声が上がり、次に同情の響きが満ちた。 ミゼリはアゴダのほうを見ることができない。 かけるべき言葉が見つからない。どうしてそうなってしまったのか分からない。 ただ、妙な直感があった。アゴダはこうなることを、知っていたのではないかという予感めいたものが――――。 「ミゼリ」 名前を呼ばれ顔を上げると、アゴダの父が目の前にいた。村人たちはぞろぞろと、広間から退場している。 「これより本儀に入る。地下に移動するように」 言われるまま、ミゼリは奥の扉へと向かう。 一度だけアゴダを振り返る。彼は最後まで、ミゼリを見ることはなかった。
ミゼリはその部屋に、一人で入った。 背後で扉が閉まる。部屋は大部分が闇に沈みながらも、中央は青い光に照らされている。周囲をぐるりと水槽に囲われた丸い島に、人魚が寝そべっていた。 「いらっしゃい、ミゼリ」 人魚は体を起こし、透き通った声で言う。何度も憧れ、甘やかな感情を喚起したその姿は、出会った日と変わらず美しかった。 しかし、今のミゼリは今までのように、人魚に恋い焦がれるばかりではない。 「どうして俺だけを呼んだのです、人魚様」 人魚がくすりと笑い、寝台の上で尾ひれを揺らす。 「これから恋人のように過ごすのに、挨拶がそれだなんて。男たちの教育はなっていないわね」 「村人たちはあなたのことを無暗に話しません。あなたとの時間が、大切だから」 「嬉しい言葉ね」 人魚は満足したように目を細めた。その青い瞳にすべてを見透かされているようで、ミゼリは落ち着かない。 「こっちにいらっしゃい」 人魚に言われるままに、島へと続く橋を渡る。人魚が手を伸ばす。ミゼリは一度ためらうが、抗えずにその手を取る。彼女の隣に腰を下ろす。酸っぱい果実のような香りに、頭がくらくらする。 「きれいな手」 人魚がミゼリの手を撫でる。節くれ立った浅黒い手が、彼女の白く形のいいそれに触れられている。頭と体の芯が、熱くなる。まるで、夢を見ているようだ。 「質問に答えましょう」 人魚がミゼリの膝の上で手を握ったまま言う。 「あなたのことが好きなのよ、ミゼリ」 え、と声が喉で裏返る。歓喜よりも驚きが勝り、ミゼリは震えながら訊いた。 「どうしてですか。俺は……あなたに数度しか会ったことがありません」 人魚は潤んだ瞳で彼を見る。 「一目見て、あなたが特別な人だと分かったの。他の人とは違う。それに」 人魚はほう、と熱い息を吐いてから、言った。 「私のことを好きになってくれたんだもの」 「俺が」 ミゼリは、渇いた喉から、その言葉を絞り出す。 「外から来たから?」 「そうね」 人魚はあっさりと認めた。 「他の男たちは、私にとってはみんな一緒なの。みんな私の息子。彼らの区別はついていないの。総体として愛しているだけで……誰と寝ても、同じなの」 思わず手を放す。村のしきたりを知ったときから、嫌悪感を覚えていたのは本当だ。しかし本人の口から聞くと禍々しさが増す上、あれほど嫉妬を募らせていた村人たちのことを不憫にさえ感じた。 「どうしたの、ミゼリ。私のことが嫌いになった?」 「いいえ……。ずっと、疑問だったんです」 「なにが?」 不安そうに自分を見つめる人魚に、ミゼリは慎重に問いかける。 「どうしてあなたは、この村の母となったのですか。どうしてこの村に新しい子を産む役目を……引き受けているのですか」 人魚は一度目を伏せ、静かな表情で言った。 「昔の話よ。長くなるけど、聞く?」 はい、とミゼリは答える。人魚は寝台に落ちる青い光を見ている。見ているようで、見ていない。 「昔々、海辺の村に、女がいたの」
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女には夫がいた。夫の一族と遠縁の山の一族から、この村に嫁いできたのだ。 女は快活で働き者だったが、物静かな夫に不満を持っていた。やがてその強すぎる性欲のために、夫以外の男と関係を持った。それを夫の一族から責められた女は、海に身を投げた。 海の底で、どういうわけか、女は人魚になった。 人魚は村の男たちを誘惑し、自分の虜にした。復讐のために彼らと寝て、子どもをたくさん作り、やがて村を乗っ取った。 男たちを自由にできる立場を手に入れた人魚は、その村に女王のように君臨した。
生が長くなれば、それに飽いて、精神のほうが先にすり切れるもの。 それは長命の異形である人魚も同じことだった。 彼女は村の暮らしを軛に感じるようになり、自由を求めた。しかし、彼女はどうしようもなく寂しがり屋で、人と離れて生きていくことなど想像もしたくなかった。 加えて、海に身を投げたことから、海を恐れてもいた。 ゆえに、村人たちが用意した水槽から出ることはできなかった。 青い光を湛えたその檻で、何年も。 きっと、三百年に迫る時間が流れていた。
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「そこにね、あなたが来てくれたの」 寝台に横になり、ミゼリのほうを見ながら人魚は囁いた。ミゼリもその隣で、染み一つない枕に頭を預けている。 「俺が?」 「そう」 人魚は愛おしげに目尻を下げた。 「特別なあなたが、私だけの特別になればいいと思った。こんな気持ちは初めてで……きっとこれが、愛だと思ったの」 「嬉しいけれど……。俺は、俺なんかは、あなたの愛に値しないと思います」 「あら、どうして?」 思いのほか強い響きに気圧され、ミゼリは苦々しく目を逸らす。先ほどの話も、尾を引いていた。 「あなたが私を……自分だけのものにしたいと願ってくれたんじゃなかったの」 問いを重ねられ、はっとミゼリは人魚を見る。 「それ、なぜ知っているんですか? 俺はその話……」 「男の子から聞いたの。もう一人、今日ここに来るはずだった子。あの子が、あなたが私と二人きりで結ばれたがっていると言っていたの」 ミゼリはがばりと起き上がり、寝台の上で頭を抱えた。衣擦れの音が聞こえ、背中を人魚の細い指がつう、と這う。 「ほしがったなら、責任を引き受けないといけないわ」 「俺はアゴダを退けようなんて、そんなこと」 「口にしたも同然だって、気づかなかった?」 振り返った人魚の顔は、怯んだようにわずかに強ばっていた。 「ごめんなさい。言い過ぎたわ」 「いいえ。あなたが正しい」 ミゼリは胸から優しい友の面影を消す。人魚と交わってきた何百人もの男たちのことも、人魚の欲望のことも、自らの過去のことも、頭の隅に追いやる。 目を開いたとき、人魚が目の前にいた。夢ではない。 「人魚様は、これからどうされるのですか」 「私はあなたと、愛し合って暮らしたい」 その願いに何一つ疵はないかのように、彼女は滔々と話した。 「ここを出て、あなたとずっと一緒にいたい」 甘やかさも緩みもない、芯の通った音色は、それが人魚の心そのものなのだと物語っていた。 「分かりました」 ミゼリは人魚の手を取る。 「結婚しましょう、人魚様。そうして死ぬまで、一緒にいましょう」 人魚は目に涙を浮かべ、ミゼリの手に頬を寄せた。 「はい。願わくば……死んでも、あなたと一緒にいたい」 ミゼリは肯定の代わりに、人魚に口づけた。柔らかい熱に包まれ、ミゼリは自分と彼女の境目を見失っていった。
白い光が目蓋を刺し、ミゼリは目を覚ました。 めくるめく交歓の余韻を覚えたのも束の間、彼は異様な光景に飛び起きる。 彼はとっさに布で下半身を隠し、後ずさった。 「ミゼリ」 目の前には、アゴダの父を筆頭に、村の重役たちがいた。厳めしい面持ちの彼らに紛れ、アゴダの姿もある。 「これはいったい」 「人魚様が消えた」 言われて、ミゼリは周囲を見回す。眠るときにはそばにあった彼女の気配は、水槽の中にすら見つけられない。 「どういうことですか」 ミゼリが波紋一つない水面からアゴダの父の顔に視線を戻すと、彼は潮風に刻まれた皺を一層濃くして言った。 「逃げ出したんだ。この部屋に鍵はない。彼女自身の意志で、外の世界へ旅立ったのだ」 ならばなぜ、目の前の男たちは怒りに震えながらミゼリを見下ろすのか。 「お前が、あの方に魂を与えたからだ」 「魂?」 耳慣れない単語に、ミゼリは目を歪める。 「そうだ。お前はあの方と結婚した。あの方はお前に魂を分け与えられ、自由を手に入れたのだ」 「そんなこと」 初めて聞いた。信じられない。言われても困る。 「掟だ。お前を海へと捧げる」 「そんな!」 ミゼリが叫ぶや否や、村の屈強な男が両脇からミゼリを捕まえた。 「アゴダと並び、いい漁師になると期待していた」 彼はもう、ミゼリに背中を向けている。 「アゴダ!」 ミゼリは友に向かって叫ぶ。彼はその双眸を、今度こそミゼリから外さなかった。 「お前ともう一度、漁に出たかった」 暴れるミゼリを、男たちは引きずっていく。無色の光に照らされた檻は、黙したまま人魚の夫を見送った。
分厚い曇天の下、ざあざあと冷たい波は繰り返す。 浅瀬に立つ柱に、ミゼリは粗い縄で括り付けられていた。満潮を迎えれば、彼の身は海へと沈む。村の唯一の女である人魚を逃がした罪のためだと、村の男たちは縄を結いながら言った。 俺が何をした、何も知らなかったのだ、というミゼリの声に、応えてくれる者はいなかった。やがて、激しい混乱と絶望の中にいたミゼリも、村人たちが大切な人魚を失ってしまったことを哀み、頭を垂れて海へと運ばれるままになった。 波に洗われる足が冷える。 昔、冷たいことを氷のよう、と表現する本を読んだ。ミゼリが村に来る前のことだ。氷は一度だけ、口にしたことがあった。ミゼリの父が連れて行ってくれた洞窟で、岩に成っていたのを父が食べさせてくれたのだ。 父は学者だった。ミゼリは思い出す。自分を捨てた人魚に怒りばかりを抱くことができないのは、このためだ。 人魚が行ってしまった心当たりは、ミゼリにもあった。
*
ミゼリは山村に、親戚とともに住んでいた。母方の家系は農家で、野菜や家畜を育て豊かに暮らしていた。 一方父は街の学舎で学んで村に戻ってきた人間で、その知識を村の運営や母たちの仕事に生かしていた。 ミゼリが十歳になった翌朝、父は息子の寝室を、まだ誰も起きていない時間に訪れた。 「父さんは旅に出る。ずっとやりたかったことなんだ。すまないが、家のことを頼む」 ミゼリの制止を、父は聞かない。せめて行き先を、と乞う彼に、父は一度だけ振り返って言った。 「海辺の村だ」 三日経っても、一週間経っても、一か月経っても、父は戻らなかった。 涙する母を、親戚たちは慰めた。彼らは長男であるミゼリに、同情と激励を寄せた。 ミゼリの中には、激しい父への怒りが渦巻いていた。 新月の夜、彼は村を飛び出した。行く先々で路銀を稼ぎながら、彼は海辺の村の情報を集めようと試みた。 その名を耳にした者は、顔をしかめた。父がそこに行ったと聞くと、諦めろと異口同音に言った。 盲目の老婆だけが、その理由を教えてくれた。 「あの村には人魚がいるのさ。その美しい体と声で、男をみんな虜にしちまう。悪いことは言わない。お前も引き返すんだね。もっとも、お前も人魚と寝たいなら、別だがね」 翌朝、たっぷりと金を残して老婆は消えていた。 ミゼリはその金を使って、村の場所を知った。砂嵐の中、村への道を辿りながら、胸に納めた短刀の感触を何度も確かめる。 これで、父を取り戻す。あるいは、すべてを終わらせる。 意識が砂ぼこりに覆われる。 目が覚めたとき、ミゼリは茣蓙の上に寝かされていた。自分を覗き込む赤ら顔が安堵に緩む。 波の音が聞こえた。自分は、目的の村に辿り着いたのだ。 短刀は近くになかった。この世界では護身用の武器を持ち歩くのは自然なことだ。ミゼリが村人たちに嘘の感謝を示すと、早速人魚のもとへ連れて行かれることとなった。 青い光の下にいる女と出会った途端、彼は息を呑んだ。 「かわいらしい男の子ね。ぜひ村に置いてほしいわ」 なまめかしい魚の下半身。美しい顔。それ以上に。 人魚の陶然とした声を耳にした瞬間、ミゼリは老婆の言っていたことの意味を理解した。 村を案内されながら父の姿を探したが、見当たらなかった。ミゼリがさりげなくよそ者の話をすると、村人たちはあっさりと、村に興味を持った者がどうなるかについて教えてくれた。それで、ミゼリは父の運命を悟った。 村人たちは親切に、ミゼリを生活の輪に入れた。こういうことはめったにないが、と彼らは言う。人魚様の言うことだから、と口を揃える頬には、初心な愛情が滲んでいる。 ミゼリにも、その気持ちは分かる。 彼の中で、あの美しい人魚への激しい憧憬と、今まで募ってきた復讐心がぶつかり合っていた。大切な家族を奪ったことは許せない。故郷に戻ったら、唯一無二の存在となってしまった人魚と二度と会えない。 どうしたらいいのか分からなくなったミゼリは、ある荒れた漁の日、アゴダを追って海へと飛び込んだ。 このまま死ねば、自分は仲間のために死んだことになり、村人たちに申し訳が立つ。アゴダを本気で助けようなどとは思っていなかった。大物のために無茶をした彼を利用することに、良心は痛まなかった。 しかし、荒波の中で背負ったアゴダは、意識が判然としない中、耳元で何度も「置いてけ」と言った。 ミゼリは、彼だけでも、助けたいと思った。浜辺についたら、自分は死んでしまってもいいと。 それからのことはよく覚えていない。 深い泥濘から目が覚めると、強烈な空腹と喉の渇きを癒やすためにひたすら飲んで食った。 アゴダに「ありがとう」と言われ、ミゼリは涙が出るほど嬉しく、そして今度こそ本当に、自分を見失ってしまった。 たった一つ確かなことは、どうしようもないほど人魚を好きだということだけだった。
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潮が満ちてきた。 もう海面は胸の高さにまでなっている。 もうすぐ自分は死ぬ。四肢の感覚はおぼろげで、浅い呼吸を繰り返す胸が苦しい。体温を奪われ、息を奪われ、自分はこの海と、一つになるのだ。 せめて一目、人魚様に会いたかった。 目が覚めたとき、あの人が隣で笑ってくれていたなら、世界に別れを告げることが決まっていたとしても、こんなに寂しい思いをせずに済んだのに。 「人魚様」 名前を呼ぶ。海が迫る。波が揺れ、耳孔が潮騒で満たされる。 「ミゼリ」 ふと名前を呼ばれた気がして、ミゼリは波間に目を凝らした。 灰色の雲を切り裂き、一筋の光が、海面に落ちている。 黒い髪を垂らした白い顔が、こちらを見つめている。 「人魚様!」 彼女が幸福そのものの笑みを浮かべたのと、ミゼリの頭上で大波が砕けたのは、同時だった。