にんぎょの筺

水底の花

 彼女が普段何をしているのか僕は知らない。ここにはそういうひとがいっぱいいて、知る必要もないのだということを僕は知っている。  午前零時過ぎ、彼女はいつもそのワールドにいる。僕は忙しくてもその時間を狙ってログインし、彼女にジョインする。夏の盛り、緑に包まれた田舎のワールド。古びた二階建ての家の玄関先に、僕は立っていた。 「こんにちは」  涼やかな声に振り返ると、彼女が縁側に座っていた。僕はそちらに歩み寄る。 「こんにちは」  まるで今が真昼のさなかであるかのような挨拶に、僕も同じものを返す。彼女は白いワンピースを着て、麦わら帽子をかぶっている。長い黒髪の先端は切りそろえられ、まるでゲームのヒロインのようだ。夏の日の憧れ。そのイメージを体現したかのような。 「今日も来てくれて嬉しいわ。調子はどう?」 「ぜんぜんですよ。残業が長引いて十時過ぎに帰ってきました」 「そう。お仕事頑張っているのね。えらいわ」  そう言って立ち上がると、彼女は僕の前に立ち、頭を撫でてくれる。ポリゴンでできた僕の髪はふさふさとしていて、これが現実ならばきっと彼女の手に柔らかな感触を残しただろう。僕はむずがゆさを覚え、頭を振る。 「もう、子供扱いはやめてください」 「あら、いやだった?」  彼女は手を止めて、いたずらっぽく微笑む。その質問は、反則だ。 「……いやじゃないです」 「知ってるわ。素直な子は好きよ」  僕は耳まで真っ赤になり、彼女に撫でられるがままになる。 「スイカ食べる?」  頭を撫で終えると、彼女はそう聞いた。夏の日、井戸の水でよく冷やしてある水菓子を勧めるような言い方。現実で僕は田舎の両親の実家に帰省した経験などない。けれども彼女の台詞があまりにも自然だったから、僕は存在しない故郷への郷愁を思い起こさざるを得なかった。 「食べます」  彼女はにっこりと笑い、縁側に置かれたスイカのモデルをピックアップした。それは半円形にカットされており、真っ赤に熟れていかにもおいしそうだ。 「はいどうぞ」  丁寧に差し出されたそれを僕は食べる。ふりをする。ここはバーチャル空間で、僕はVR感覚を持っていない。彼女のロールプレイに付き合っているだけだ。けれども幾度となく繰り返されたそれを、僕は確かに楽しんでいた。 「おいしいです」 「よかった」  そうして彼女はワンピースの裾をひらひらとさせながら、のんびりとした口調で続ける。 「スイカって、一口目はすっごく甘くて、信じられないくらいおいしいのよね。頭の中にまで果汁がいっぱいに広がる感覚がするの。でも、二口目、三口目と食べていくうちに、しゃりしゃりした食感の、それこそ瓜にしか思えなくなって……」 「分かります」  僕はスイカから口を離して言った。 「やっぱり最初に口に当たるところは塩がかかっているからとか、中心部でおいしいからとかですかね。だんだん種をとるのも億劫になってくるし」 「あら、君は種を取るのね」 「え、ほかにどうするんですか?」  彼女が種を吐き出すところが想像できなくて、僕は聞いた。彼女はくすくすと笑う。 「私は種は全部飲み込んじゃう。取るのも吐き出すのも面倒くさいもの。いとこの男の子たちはどこまで口から種を飛ばせるか競争してたけれど、私は横で見てるだけだったわ」  彼女が親類の話をするのははじめてだった。僕は迷ってから、その疑問を口にする。 「○○さんは、こういう山の中の家で過ごしたことはあるんですか?」 「あるわ」  彼女は即答した。白魚のような手が軒先を指す。 「お盆の時期になるとね、こういう古い家に毎年親戚が集まったの。昼間はいとこたちと川遊びや虫取りをして、夜は庭で花火。その習慣も中学に上がるまでで、今ではもういとこたちの顔も忘れてしまったけれど、バス停にひまわりが咲いていたことや、裏山からは村全体が見えたことなんかは覚えている」  最後に一言、懐かしいわ、とつけたした。本当にその思い出を慈しむような調子だったから、それはきっと、本物の記憶だった。 「君の故郷はどんなところ?」  明るい声で彼女が聞いた。僕は神社がある森を眺めながら思い出す。 「僕は」  一度後ろめたい気持ちになり、それでも言葉を続けた。 「本当に小さいころは県外のアパートに両親と住んでいたんですが、三歳のときに今の家に引っ越してきてからはずっとここに住んでいます。街中なので、あんまり自然の中で過ごした記憶もありません。三歳まで住んでいたアパートも、もう取り壊されたって聞きましたし、その周辺の風景も覚えていません」 「そう」  びっくりするほど優しい声がして、僕は彼女の顔をまっすぐに見た。彼女はいつも通り、柔らかな微笑を湛えている。 「君は故郷を失っているのね」 「でも」  と、僕は言う。言ってから、なにを話すべきか、考えた。 「物心ついてから実家を離れていないので、懐かしい気持ちを覚えることがないんです。そういう意味では、僕は故郷を失ったことがないのかもしれない」  言ってから、これではまるで彼女が故郷を失ったひとのようだ、と思った。 「それで合っているのよ」  彼女が僕の心を見透かしたかのように言う。 「故郷を失った者だけが望郷の念を覚えるの。帰れない場所、更地になってしまった家、会うことのない家族。きっとそういうひとは、大人になって愛するひとを得ても、心のどこかで孤独なのね。そのひとと結びつく場所しか癒やせないさみしさが、確かにあると思う」  そうして彼女は、川のほうを見た。僕はなんとなく、彼女の抱えているものを察して口をつぐんだ。蝉の鳴き声とのどかなピアノの音が聞こえる。 「次に会うときは」  彼女が朗らかな声を出す。日差しが明るさを取り戻した気がした。 「夜にしましょう。夜になると、河原で夏祭りが開かれるの。屋台がいくつも並んでいて、盆踊りもできるわ。楽しいこと請け合いよ」  はい、と僕は返事をする。彼女が指しているのは、このワールドには夜のバージョンがあるということだろう。彼女はそこで待っている。祖母から譲られた浴衣を着て、長い髪を結い上げ縮緬細工の髪飾りを差している。僕を見ると朝顔のようにしとやかな笑みを浮かべて、こう言うのだ。「こんばんは」、と。  僕は彼女がこの世界を必要としなくなるまで、彼女のごっこ遊びに付き合おうと思う。なぜなら彼女は、僕がはじめて好きになったひとだからだ。 「ちょうどBOOTHに少年アバター用の甚兵衛が出たらしいので、着せていきますよ。明日は定時退社日ですし」  彼女は、そう、と微笑んだ。やはり、私も箪笥の奥から浴衣を出すわ、と言った。  僕は見下ろした手首をくるりと回す。陽光のあふれる世界で、デジタル時計は零時半を示していた。 「それじゃあ、今日はこのあたりで失礼します」 「うん。お仕事頑張ってね。また明日」 「おやすみなさい」  手を振る彼女に見送られて、ワールドの隅に移動する。ログアウトする刹那見えた彼女は、朝顔の写真を撮っていた。いつか彼女が僕自身のことに興味を持ってくれたら、僕に自分の所在を教えてもいいと思ってくれたら。朝顔の種を送ろう。現実のそれは毎日蔓を伸ばし、新しい花を咲かせるだろうから。  それまで、僕をそばにいさせてください。電子の故郷で僕のことを待っていてください。毎夜必ず、あなたのもとへ帰りますから。  ヘッドマウントディスプレイの電源を落とす。部屋は暖房が効いていて室温は二十℃を示している。窓の外は星も凍りつく冬のさなかだった。

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