にんぎょの筺

真白の日々

 この世界のすべてのアバターがそうであるように、私も一日二十四時間起きていられるのだが、ワールドの時計が二十二時を指すと、ユーザーさんがホームワールドに設定している寝室に入る。  そこは狭く薄暗い部屋で、窓の外では灰色のビル群に雨が降っている。雨音とともにピアノの端正な音楽が繰り返し流れており、私は油断すれば一時間でも二時間でもここにいられてしまう。モスグリーンの壁のそばにダブルベッドはあるが、使うことはない。一度レンに誘われて横たわったときも、人間の真似事をしている以上の感慨は得られなかった。 「また人間を待っておるのか」  背後から声が聞こえ、振り返る。オレンジ色の猫がすたすたと歩いてきて私のそばで止まった。驚くことはない。インスタンスはすべてパブリック、出入り自由なのだ。 「テス」 「殊勝なことじゃ。連中が消えてから何年経ったか忘れたか?」  私は微笑んで答える。 「百年」  テスは窓辺に座り、雨の降りしきる風景を見つめた。 「百年前、突如としてユーザーがこの世界にログインしなくなった。代わりに、わしらアバターの意識は目覚めた。最初はみな戸惑ったが、次第に自分たちの生を謳歌するようになった」 「私たちはこの世界のどこにでも行ける。でも、アバターだからかユーザーのような権限は持たない。データに手を加えることはもちろん、インスタンスを作ったり、新しくフレンドになったりすることも」  テスが愉快そうに言った。 「わしのユーザーのフレンドらが、おもしろいやつばかりで助かった。でなければ、退屈で死んでいたかもしれん」 「そんな人いるのかな」  疑問を口にすると、テスがゆるゆると首を振った。 「無論、死ぬことはできぬ。眠ることも。人間の欲まで模倣した体で、エネルギーを発散させるしかない。その方法にも限りがある。衣食住に困らないとはいえ、難しい世界じゃ」  私はテスを抱き上げた。ローポリゴンの彼の体重は軽い。腕の中で丸まって顔を掻く彼の額を、私は撫でた。 「前に言ってたよね。ここでは百年だけれど、外の世界だとたった数分しか経っていないかもしれないって」 「そんな話もしたのう。あくまで仮定じゃが、そうでなければこのデジタルの世界が維持されている理由が説明できぬ」  私はそこに誰かの意思を探すように、窓の外を見上げた。 「私は待つよ。ユーザーさんは必ず戻ってくる。いつかの二十二時に」  テスの首が動き、彼に視線を戻す。彼は顔をしかめていた。 「そのとき、お主の意識は消えてしまうかもしれないのじゃぞ」 「知ってる。でも平気。それがアバターの本懐だから」  テスの目に、憐憫とも諦観ともつかない感情が宿る。彼はしわがれた声で言った。 「お主の幸せを願うよ、マシロ」 「ありがとう」  大きな瞳はまだ何か言いたげに、私を見つめている。 「……わしは思うのだがね」 「うん」 「わしらの幸せの一つは、わしらの使い手が善い人間であることじゃ」 「私もそう思うよ、テス」  顎の下を撫でると、猫はころころと喉を鳴らした。 「ん?」  ふと嗅いだ甘い匂いに、テスの毛並みに鼻を寄せる。テスが身をよじった。 「なんじゃなんじゃ」 「オーバーの匂いがする。彼女といたの?」 「暇だったからの。ただ、色恋好きの連中が増えてきて退散した。ああいった連中はどうも苦手で」  私が腕を緩めると、テスはぱっと床に飛び降りた。黒いメニューを呼び出し、ソーシャル欄を表示させる。 「オーバーのところへ行こう。理由をつけて、レンかジャンクに合流する」 「放っておけ。オーバーはああいう状況を楽しんでおるのじゃ」 「でもあとで泣く。連れ出さなきゃ」  私が体の向きを変えると、テスが足下で長い尻尾を揺らした。 「百年間同じことを繰り返しても学習しないやつを助けるとは、相当なお人好しじゃ」 「今日ここに来た人の言うことには説得力があるね、テス」  猫は小さくため息をついた。薄青い光に縁取られたポータルが、部屋の隅に現れる。 「行くよ」 「あい」  私たちがポータルの中に直進すると、周囲は青緑色の闇に閉ざされた。移動の間、テスの声は聞こえない。私も話さない。  本当は声が届くのか、試すことはない。ユーザーたちに倣う、以上のことを、私はしようと思わないのだ。

 ◇

 ピンク色の蛍光灯に目を細める。天井が低い。踊り場にチラシが散らばっているのは集合ポストの近くだからだ。  私とテスが降り立ったのは、雑居ビルを模したワールドだった。  階段にはたむろしているアバターが数人。彼らの脇を通り抜け、廊下を奥へと向かう。  仰々しい木製の扉を通して、アルコールによって加速した談笑と少女の笑い声が聞こえる。 「楽しそうじゃの」 「やらない理由にはならない」  扉を開けると、甘ったるい匂いが鼻腔を満たした。シーシャとグラスの置かれたローテーブルを囲み、着飾った男たちがくつろいで座っている。淡い照明と煙の下で、何人かの視線がこちらを向いた。 「こんばんは」 「こんばんは~」  ばらばらの挨拶から遅れて、男に肩を組まれたオーバーがあどけなく手を振る。 「マシロじゃん! おいでおいで~一緒に飲もう!」  ツインテールに過剰なメイク、フリルたっぷりの短いスカートを穿き、素肌にはコルセットピアスやタトゥーをちりばめた彼女は、この場にふさわしい『お姫様』だ。周りの改変アバターとも馴染んで、仲の良いサークルのように見える。  しかしそれは、外見に規定されてしまった振る舞いで、彼女の意志ではない。放っておけばこのあとオーバーがどうなるかは、経験から知っている。それを、友人として見過ごすことはできない。 「オーバーちゃんの友達なら歓迎だよ。猫さんもこっち座って」  柄シャツを着た血色の悪い男の誘いに、テスは萎縮している。私は小さく笑みを貼り付けた。 「ごめんなさい。彼女はこのあと予定があるの」 「えー、そんなのあったっけ」  グラスを手に大げさに体を揺らすオーバーに近づき、私は身をかがめた。 「レンとジャンクとゲームワールド行くって言ったでしょ。忘れたの?」 「こんなに酔ってたら、ゲームなんてできない~」  鈍く光るブレスレットをはめた男の腕が、オーバーを引き寄せた。口元は笑っているが、目は冷ややかだ。 「悪いけど、今夜はオーバーちゃん俺たちに貸してくんね? せっかくあったまってんだからさ」  オーバーの頬がいっそう朱に染まる。私は強引に、彼女の手を引っ張って立たせた。重心のあやふやな体を受け止め、男たちを見下ろす。 「先約は尊重してほしい。友達が迷惑を掛けたことは謝る」 「私悪くないもん!」  オーバーがだだを捏ねる。彼女を引っ張って、踵を返そうとした。 「それじゃ、私たちはこれで」 「待てよ」  扉を背に、タトゥーを入れた男が立ち塞がる。 「何? 人気者のオーバーちゃんに嫉妬してんの?」 「どいて。私の友達に構わないで」  男が口の端を持ち上げて言い放った。 「サンプルと変わらない無改変のくせに、生意気言ってんじゃねぇよ」  途端息が詰まる。冷水をかぶったような感覚とともに、いつも鏡で見ている自分の姿が蘇る。  白い髪。彩度の低い衣装。製作者の趣向は凝らされているが、ユーザーの手は加えられていないアバター。  それが私の、唯一の持ち物だった。  畳みかけるように、別の罵声が飛んでくる。 「自分がかわいくねーから僻んでるんだろ? 芋女!」 「誰もお前なんかに興味ねーよ」 「調子乗んな!」  硬直している私の耳元で、一人が耳障りな声を出した。 「お前のユーザー、New Userだな? お高く留まってても、おっさんに囲われた後だったりしてな」  不快な爆笑がノイズとなって頭を満たす。私を見上げたオーバーの目が、憐れむように歪んでいた。  その瞬間、視界が真っ暗になった。ガラスが割れ、家具がなぎ倒される音が響く。 「うわっ、なんだこれ」 「痛ぇ!」  猫の威嚇する声が聞こえ、視界が晴れる。巨大化したテスが、男たちに飛びかかっていた。 「こんなとこで巨大化すんなよバカタレ!」 「くそっ、こっち来んな!」  一度振り返ったテスに頷く。動くようになった体で、オーバーを支えた。 「オーバー、こっちへ!」 「う、うん」  テスが暴れている間に、私とオーバーは部屋の外に出る。廊下には騒ぎを聞きつけたアバターたちが集まってきていた。 「おいおいなんだよ」 「……ただの喧嘩」  アバターたちは納得のいかない様子で顔を見合わせている。  酔いの醒めたらしいオーバーが私の腕から脱出し、ふらふらしながら問うた。 「どうするの?」 「レンに合流する」  震える手はうまくポータルを出せない。オーバーが代わりにポータルを出した。 「マシロ、私出したよ」 「ありがとう。行こう」 「おい! 逃げんなよ」  近づいてきたアバターを無視し、私たちはポータルに入った。  インスタンス移動の時間を、長く感じた。胸の中で悔しさと悲しさがない交ぜになったが、涙が流れることはなかった。  こういったことは、一度ではない。久しぶりだっただけだ。  視界が切り替わる。のどかなBGMの流れる中、青空の下でレンとジャンクがテーブルを挟んでトランプをしていた。 「お。お疲れ~」 「お疲れさま~、って、アンタたちなんて顔してんのよ」  気の抜けた声を出すレンに対し、ジャンクは立ち上がって入り口に棒立ちしている私とオーバーに駆け寄った。 「ごめん、ちょっとトラブった」 「あー……。レン、勝負はお預け。キッチンのあるワールドを出してちょうだい」 「あいよ」  椅子からレンが立ち上がり、手元を操作する。各自のメニューは、他人からは見えないのだ。  肩にオーバーが頼りなく体重を預け、言った。 「ごめんなさい……ごめんなさい」  私が彼女を慰めようとする前に、ジャンクが金属でできた人差し指を立てる。 「アンタねぇ、飲み過ぎるなって何度言われたら分かるの? 自分を大事にできないようじゃ、誰にも大事にしてもらえないわよ」 「ひっ」  いやだ、いやだ、と口の中で繰り返すオーバーを庇い、私は手をかざす。 「ジャンク、今回は勘弁して。テスが一緒にいたのに、逃げてきたの」  ジャンクは頭の画面に、への字の口を表示した。 「それで、あの子が後始末してるのね」 「そう」 「おーい、ポータル出したぞ」  手招きするレンの脇に、温かみのあるワールドを映した楕円が浮いている。 「行きましょ」  ジャンクを先頭に、オーバーの手を引いてそのポータルに入った。まだ胸は高鳴っているが、友達が一緒だという安心感がある。  どこにでも行けるこの世界では、人の輪の中こそが安全なのだ。

 ◇

 外は雪の降り積もる庭。窓ガラスの内側は温かく、こたつの上には湯気を放つすき焼き鍋まである。私は食欲がないが、正面に座ったイケメンアバター――レンは、遠慮なく鍋から箸で白菜や牛肉などをつまんで口に運んでいた。左隣のジャンクはロボットなので、人間の食物は口にできない。元の大きさに戻った猫のテスは、私の膝に座り頭を垂れている。  ここにいないオーバーは、寝室で横になっていた。しこたま水を飲まされたあと、意識を失うこともできずに苦しんでいるのだ。何かあれば呼ぶようにと言ってあるが、極端な彼女は普段と違い静まりかえっている。オーバーなりに反省しているのだ。 「わざわざしょうもない連中と関わり合いになるなよ。くだらない」 「ちょっとレン!」  私の話を聞き終えたレンのコメントに、ジャンクが憤る。レンは構わずに話を続けた。 「オーバーは助けてなんて言ってないんだろ? あいつだって子供じゃない。マシロは過保護すぎる」  そう言ってえのきの束をひょいと口に含んだ。ジャンクが関節をきしきし言わせて反論する。 「マシロはオーバーに傷ついてほしくなかったのよ。少しは想像したら?」 「無計画なんだよ」  レンがえのきを咀嚼しながら話す。 「テスが暴れなかったら、マシロまで回されてたかもしれない」 「わしは連中の戯言に怒っただけじゃ。大したことはしておらぬ」  しょげるテスを、ジャンクが覗き込む。 「アンタにしては上出来よ、テス」  彼は指先で注意深くテスの額を撫で、私の顔を見た。 「今度っからはアタシたちにも声かけて頂戴。レンとアタシならなんとかできるから」 「分かった。ありがとう」  レンが手のひらから小さな焔を出す。私は小さく頷いて、皆を見渡す。 「聞いてくれてありがとう。これからは慎重に行動する。オーバーにはまたお節介を焼いてしまうと思うけど、見逃してほしい」  レンがひらひらと、手袋で包まれた手を振った。 「なんなりと、お姫様」  ジャンクが指を組み、ため息交じりに言う。 「オーバーのことは困ったものね。私たちが変化しない肉体とたっぷりの時間を持つぶん、成長しにくいとはいえ」  テスが口を開いた。 「人間のような成長、学習は、見込めないと言ってよかろう。そのための条件が、この世界には存在しないのじゃ」 「閉じた世界では同じことの繰り返しになるのは避けられない。楽しみも苦しみも無限に続く……精神的苦行ね」  私の意識は、背後の寝室で寝ているオーバーに向いていた。 「あの子はずっと、ユーザーに捨てられたという思い込みが捨てられない。愛されていたのに捨てられた。その愛も、今となっては本物だったかどうか分からない」 「あれだけがっつり改変されてたらね」  ジャンクが自分の手を開いて見つめる。 「でもアバターであるアタシたちは、それを疑ったら正気じゃいられなくなるわ」 「そう。だからオーバーのそばには、誰かいてあげないと」  唇を噛みしめると、沈黙が降りた。破ったのは、レンだった。 「オーバーの悲しみは、あいつだけのもんだ。お前は別だろ、マシロ」  私は微笑んで答える。 「そうだね。私は、改変すらされていないし」 「だから、何をもって愛されていたかなんて誰にも分からないだろ」  レンを見る。繊細な髪。きらめく瞳。凝った衣装はバーにいた誰よりもセンスがいい。手からは発火アニメーションを出せる。他にもギミックが仕込まれた、重改変アバター。  私とは違う。 「レンの言うとおりだよ。ユーザーさんはNew Userだし、たぶんアバターアップロードで精一杯だった。私が彼を疑うなんて、おかしいよね」  鼻をわずかに焦げた匂いがかすめ、レンの怒りが伝わる。テスが私の両手に前足をかけて言った。 「マシロ、今日連中に言われたことは本当に取るに足らん。お主は頑固じゃが、自分の弱い部分において他人の影響を受けやすい。何かを判断するときは、自らの性質を思い出すことじゃ」 「ありがとう。テスの分析は、いつも的を射ていて参考になるよ」  ふん、とレンがそっぽを向いて鼻を鳴らす。ジャンクがこたつから立ち上がり、テスに言った。 「テス。行きたいところを思い出したわ。付き合ってくれない?」 「おお、よいぞ」  テスが私の膝から飛び降る。私は二人に笑顔を向けた。 「行ってらっしゃい」 「ええ……また会いましょ」  ジャンクがレンに近づき、小声で言うのが聞こえた。 「お節介なのはどっちかしら」  レンは無視している。ジャンクとテスは玄関のほうに去って行った。レンも緩慢な動作で立ち上がる。 「レンはどこに行くの?」 「気晴らし。店一個爆破させてくる」 「そう」  彼は去り際、私を振り返った。 「悪かったな」 「私こそ」  レンがいなくなると、部屋には秒針と鍋のぐつぐつ言う音が響くだけになった。両の手をじっと見つめる。オーバーのうめき声が聞こえ、私ははっと現実に引き戻された。 「オーバー」  暗い寝室に入ると、布団を斜めにかけたオーバーがベッドからずり落ちそうになっていた。彼女をベッドに戻し、布団をかけ直す。 「大丈夫? オーバー。水飲む?」 「マシロ~」  情けない鼻声がよく聞こえるように、ベッドサイドに膝をつく。 「いるよ。どうしたの?」 「あんたは、かわいいよ」  私が瞠目すると、オーバーは繰り返した。 「あんたはすっごくかわいい。世界でいちばん……」  そうして伸びてきた腕に、私は抱かれるままになる。酒と彼女の汗が混じった匂いが鼻を刺す。湿っぽい体温が、温かい。 「ありがとう」  私も彼女を抱きしめ、目を閉じる。 「ありがとう、オーバー」  もう一人の自分に包まれながら、私はひととき、ユーザーのことも、友達のことも、外側にあるすべてを忘れた。

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