にんぎょの筺

 空の落ちてくる夢を見た。  私は死んでしまう、死んでしまう、とパニックになりながら、でもあんなに死にたかったのに、なぜ泣きわめく必要があるのだろうと、一瞬経ったあとに冷静になった。  空が落ちてきても死ぬだけ。この苦痛が私の生命ごと終わるだけ。  そう思うと、私には死をもたらす鋼鉄のような青空さえ、愛おしいものに感じられた。  花束を受け取るように迫りくる青空に腕を伸ばす。穏やかな気持ちで目を閉じる。  それを最後に、私は夢から醒める。  私は病院のベッドに寝ていた。  腕には点滴の針が刺さり、鼻の下には酸素チューブが固定されている。時刻は夜明け前。厚いカーテンを通して冬の空気がしんしんと、病室まで入り込んでくる。  群青の薄明りの中自らの腕を持ち上げる。重い。それなのに、この腕は枯れ枝のように細かった。食器より重いものを持ち上げたことのない腕。何も生み出さない、何も守れない、無力でみすぼらしい私の体。  私はずっとここにいた。医者によるとそう長くは生きられない。自分のしたいこと、しなければならないこともできないまま、この狭い病室で命の火を絶やす。  ほむらなんて名前を付けた両親を恨んだ。私はただの燃えかす。いや、燃えあがることもできない埋火。一生灰をかぶった醜い少女のまま死んでいく。  そんな在り方に、そんな未来に疑問を持ったことはなかった。あきらめていた。自らの体から出られたひとなんて、一人もいないのだから。  彼女と出会う、あの日までは。

 それは私が中学生になって一年目の春だった。当然私は学校に通っていなかった。真新しい制服が病室の壁に掛けられていたが、私はそれに袖を通したこともない。私はそれを、両親の私に対する嫌がらせだと思っていた。  その日病室を訪れたのは、いつもとは違う足音だった。母と連れ立って入ってきたその女性は、艶めいた髪をした若い女性だった。 「こんにちは。はじめまして、ほむらさん」  会釈しながら、歯切れのいい澄んだ声で女性は言った。絹糸のような髪がさらさらと、彼女の細い肩を伝って落ちる。私はそんな美しい女性と生まれてこの方話したことがなかったから、緊張して、まともに返事をすることもできなかった。  彼女はボランティア活動で病気の子供のもとを訪れている学生らしかった。怖気づき、母と彼女が交互に話しかけてくるのに頷くことしかできないでいる私に、彼女は「緊張していますか? 大丈夫。私もしていますから」と言って笑った。その言葉が私の心を軽くするためのものであることは明らかだった。私はそんな彼女の余裕めいた態度に嫉妬して、布団で口元を隠した。  説明を終えて、母は夜勤のために病室を出て行った。女性はワンピースの裾をふわりとさせてベッドサイドのいすに腰掛けた。シャンプーのいい匂いが漂う。それは消毒液と排泄物のにおいのするこの病室で、異質なものだった。  彼女は眉を八の字にして言った。 「ごめんなさい。事前にご両親から説明がされているものだと思って……驚かせてしまいましたよね。ほむらさんがよければ私はぜひほむらさんとお話ししたいのですけれど……構いませんか?」  いやと言えるわけがなかった。いつだってそうだ。私は自分の人生に対して何の拒否権も決定権も持っていない。あらゆる治療を、私のことで喧嘩をする両親のそれぞれへの愚痴を、受け入れてきた。このきれいなお姉さんの存在も、いつか何のとりえもない私に飽きて通り過ぎていくものとして、認めるしかない。  彼女は私のプロフィールを聞いた。普段何をしているだとか。どんなものが好きだとか。私は彼女と一問一答のような会話をした。そんなもの、彼女にとっては退屈で意味のないものだろう。けれども彼女はいやな顔一つせずに、私の答えを聞いていた。  一通り質問を終えて、彼女は花のように微笑んだ。 「ほむらさんは、本が好きなんですね。じゃあ、こういうのはどうでしょうか」  彼女が取り出したのは、一冊の本だった。母が持ってくるような児童向けのものではなく、ハードカバーの、大人が読むような小説だった。私はかすかに気持ちが浮き立つのを感じた。生まれてはじめて大人のように扱われたような気がしたからだ。  彼女は小説を読み上げてくれた。簡素な言葉の組み合わせで成る文章は、豊かで美しい世界を表現していた。彼女の柔らかい声が奏でるのも相まって、そのリズムは耳に心地よい。主人公は大人で、物語の舞台は私の知らない外国で、私は目の前に見たこともない景色が広がっていくのを感じていた。  しかし、普段耳から入った情報を処理するのに慣れていない私は、途中で集中が切れてうつらうつらとしてしまった。彼女は私の様子に気がつくと、ページをめくる手を止めて顔を覗き込んだ。 「ごめんなさい。退屈でしたか?」 「いいえ」  私は自分の声が、はっきりとしていることに驚いた。 「とても、面白いです」  彼女は心から安堵したように笑った。そうして時計を見て、残念そうに眉をゆがめた。 「よかった。……名残惜しいですが今日はここで失礼します。また来てもいいですか?」  私は力強く首を縦に振った。がりがりの体の上で大きな頭が揺れるさまは滑稽だったかもしれない。しかし彼女は優しく目を細め、私の両手に本を握らせた。 「気に入ってもらえて本当に嬉しいです。この本はほむらさんにあげます。自分で持って読めますか?」  持ち上げてみた。茶碗を持つのも億劫に感じていたはずの私の腕は、軽々と、その本を持ち上げた。遠い外国の夕焼けも、音楽も、においも、そこに生きる人々の人生も詰まった一冊の本から、私の体に力が流れ込んできているようだった。 「一人で持てます。読んでみます」  そうして私は、はじめてまっすぐに彼女の目を見た。 「また来てください」

 私は小説を読むようになった。それもたくさん。辞書を引きながらなので早くはないが、それでも一日に一冊は読んでいた。  私は徐々に体力をつけた。食事の量を増やし、立って、少しだが歩けるようにもなった。母は歓喜の涙を流し、いつもは不機嫌そうな父の顔も心なしか緩んで見えた。  あのボランティアの女性は、相変わらず週に一度この病室を訪れていた。 「こんにちは、ほむらさん。先週貸した本、どうだった?」  そうして私たちは、本の感想を語り合った。私ははじめ、小説をどう表現したら分からなくて、覚えている限り内容を語り、それに対して、よかった、面白かった、ここは少しおかしいと思った、といった感想を付け加えた。彼女はいつも笑顔で話を聞いていた。  彼女の語る感想は語彙が豊かで、ずっとずっと的確に私の言いたかったことを言い表していた。彼女の小説への造詣の深さは私にほんの少しの妬ましさと、パズルのピースがはまるような強い爽快感をもたらした。彼女と私の感想が一致することもあれば、まったく違う部分に注目していることもあった。その違いが、面白かった。他人と見方が異なるということが、新鮮で、好ましいことに感じられた。

 あるとき彼女は、一冊の本を持ってきた。それはいつも彼女が持ち込む本と比べると一風変わった装丁をしていた。 「私が中学生のときに読んでいた本なの。絵が描いてあるけれど中身は小説。ライトノベルと言って、若い人向けの分かりやすい小説よ」  すっごく面白いのよ、と彼女は熱のこもった声で語った。手渡された本の表紙に描かれていたのは、すらりとした刀を持ったセーラー服姿の少女だった。その絵はとてもきれいで、今まで見たどんなイラストよりも、いまふう、な感じがした。 「もう完結したけれどすごい人気だったの。設定や言い回しがよく練られていて、アニメも本当にかっこよかった。この女の子がね、炎の神様と契約した戦士で……」 「お姉ちゃん。ちゃんと読むから大丈夫」  珍しく興奮した彼女をたしなめるように私が言うと、彼女は照れ臭そうに笑った。 「ごめんなさい。つい早口になっちゃった。ぜひほむらちゃんと語り合いたくて……」 「私がお姉ちゃんから勧められた本を読まなかったことなんてないでしょう? お姉ちゃんの性癖は信じてるから、そこは安心して」  ありがとう、と言う彼女の瞳が夕日を反射してきらめいた。長い髪の輪郭も、赤い光を透かして輝いて見える。まるで、このイラストの少女のようだと思った。

 私はお姉ちゃんに勧められたライトノベルを読んだ。そして、その世界に没入した。一巻を借りたその日中に読み終え、続きが気になって翌日母に図書館にないか聞いた。母曰く、そのようなティーン向けの本は市外の図書館でなければ取り扱いがないという。私は深く落胆した。お姉ちゃんが続巻を持ってくる日が待ち遠しくて仕方なかった。眠る前、物語の続きや余白を想像するのが楽しみになった。  次の週。病室に入ってきたときからそわそわした態度を隠せないでいるお姉ちゃんに、私はライトノベルを気に入ったことを伝えた。彼女は今までに見たことがないほど喜び、私の感想を聞きたがった。私の稚拙な感想を、彼女はそれはそれは楽しそうに聞いていた。  彼女はその日の別れ際、茶色い不織布の小さなバッグから二巻を取り出した。ちゃんと別れ際に渡してくれてよかった、と私は思った。途中で渡されていたら、我慢できずにその場で読んでしまっていただろうから。  二巻も素晴らしかった。新たな敵も魅力的だったし、ヒロインの成長も我が事以上に嬉しかった。わずかに顔を覗かせた世界の深淵に心惹かれながら、主人公たちの恋の行方も気になった。恋なんて私には縁がないけれど、それはきっと、世界が黄金色に弾けるような喜びをもたらしてくれるのだろう。この物語が、そう信じさせるに足る、説得力を持っていた。  さらに次の訪問で、お姉ちゃんはきちんとシリーズ全巻を持ってきた。二十巻以上あるそれは、父が作ってくれた小さな本棚にすっかり収まった。私はそれらを毎日、むさぼるように読んだ。最後に向けて読み進めるのが惜しくなった。それでも読まずにはいられなかった。はやる気持ちを押さえて、大事に、私は最後の数巻を読んだ。

 お姉ちゃんが次の週、私の病室を訪れたとき、私は涙をこらえていた。 「ほむらちゃん、どうしたの!?」  彼女の視線は私の握りしめている文庫本に吸い寄せられた。全二二巻の最終巻。光の中朗らかに笑う、ヒロインの立ち姿。  お姉ちゃんは駆け寄って私を抱きしめた。豊かな胸が、私の顔に押し当てられる。 「いい旅をしたんだね、ほむらちゃん」  そうして、私の髪を優しく撫でた。 「泣いていいよ」  ゆるされた私は、お姉ちゃんの胸で、しゃくり上げた。

 その日から一か月は、私とお姉ちゃんは会うたびにそのシリーズについて語り合った。どんなに言葉を尽くして感想や考察を述べても、最後には主人公とヒロインの告白に行きついてしまう。私たちは尊いしか言えない語彙力のない読者になり、そんなお互いを認めて笑った。その時間が、なによりも好きだった。  お姉ちゃんと語らったことで多少なりとも作品に対する考えを整理できた私は、それでも余りある熱量を、形あるものにぶつけることにした。  創作である。  お母さんが買ってきてくれた大学ノートに、私は生まれてはじめての小説を書きはじめた。本をたくさん読んでいる自負があった。原作を愛する私なら多少なりとも面白みのあるものが書ける自信があった。  しかし、実際に書きはじめてそれがとんでもない思い違いだったと知った。まず書き出し方が分からない。どんな場面からはじめるべきか、それをどんな言葉で写し取るべきか、皆目見当がつかない。いざ映像が浮かんで文章にしようとしても、言葉そのものが持つ力に反発を受けて筆が止まってしまう。簡単な言葉でもつらねて文にするのは難しかった。それらをさらにつなげて文章らしきものはできても、どこで段落を区切ったらいいか、どの方向に話を持って行ったらいいか分からず、何度も何度も心が折れそうになった。  それでも私は、お姉ちゃんに喜んでほしくて、すごいと言われたくて、その二次小説を書き続けた。  結局、練りに練った長大なプロットは平々凡々な小話に収まった。言いたいことがうまく言えなくて、さまざまな枝葉を切り落とすうちに二千字程度のショートショートになってしまったのだ。  私は大きな、大きな落胆の気持ちと、ほんの少しの期待を覚えながら、お姉ちゃんにその話を見せた。  私が固唾をのんで見守る中、お姉ちゃんは食い入るように大学ノートを見つめている。私は自分の心の奥底を覗かれているような、少し恥ずかしい気持ちで沈黙に耐えていた。 「すごいよ、ほむらちゃん!」  それを破ったのはお姉ちゃんの明るい声だった。私に向き直った彼女の瞳は、星でも宿ったように輝いていた。会ったばかりのころの楚々とした印象とはまったく違う、無防備で素直な喜びに満ちた表情。 「すっごくよかったよ! なんかもう本当に、尊いって感じ……きれいにまとまっているのにパッションを感じる……すごいよほむらちゃん……」  それから何度もお姉ちゃんはため息をついていた。褒められ慣れていない私はどうしたらいいか分からなくて、唇をすぼめて言った。 「でもぜんぜん言いたいこと言えなかったんだよ。本当は長編の予定だったけど、まとまらなくてSSにしちゃった」 「えっ長編!? これもともと長編だったの!?」  予想外の食いつき方をされ、私は少し身を引いた。 「いやこれはこれでいいんだよ、すごいふたりの関係性のエッセンスが詰まっていると思うよ。これが長編となると、どうなっちゃうんだろう……めちゃくちゃ読みたい……」 「そんなに言うならこのネタお姉ちゃんにあげるよ。お姉ちゃんのほうがずっと上手く書けると思うし」  するとお姉ちゃんは、分かりやすく怒りの表情になった。だめ、と端正な指が私をさす。 「自分の作ったお話に責任を持たないと。ほむらちゃんの小説はほむらちゃんにしか書けないんだよ。私には、百歳まで生きても書けやしないの。だからほむらちゃんが、自分がいいと思う形で最後まで書いて」  混じりけのない声と表情が、それがお姉ちゃんにとって真実であることを告げていた。私は不承不承、という態度を取りながら、その実言い知れない高揚感を覚えていた。 「分かったよ。頑張るけど、あんまり期待しないでね」 「うん! ずっとずっと待ってるから!」  屈託のない笑顔に、私もいつか小説を書けるようになりたい、と思った。

 相変わらず胸の調子はよくなかった。生まれつき弱い心臓は普通に生きられるようになるための手術に耐えられない。私の世界は病院の中に限られ、言葉を交わす人も、両親とお姉ちゃんと病院でお世話になっているひとびとだけだった。  けれども私は、以前ほど自分を不幸だとは思わなくなっていた。本を開けば無限の世界が広がっている。その中に生きている登場人物たちと、その向こうにいる作者と、対話をすることができる。草の上を歩けなくても、潮の香りを嗅げなくても、私はじゅうぶん、そこにいると感じられる。  遠くない将来病気で死ぬのは変わらない。人見知りは直らないし、セーラー服にも袖を通せていない。本の中のようには、自分の人生は劇的に変わらない。  でも、今の私は、以前よりはましな人間であるという自覚があった。  お姉ちゃんが教えてくれた。私の目を世界に向けてくれた。憧れながら憎み、愛しながら嘲笑するような世界ではない。  本物の、心で触れる純でかけがえのない世界。  それを知ったから私はもう大丈夫だと。多くは望まない。ただ大切な人たちと死ぬまでこんなふうに、穏やかに日々を過ごせたらいいと。  そう思っていた。その程度の幸せなら、誰も奪わないだろうと、信じて、疑わなかった。  その日お姉ちゃんは週に一度の訪問の日だというのに来なかった。時間を過ぎても私の病室の引き戸は開かれず、安否を確かめる電話にも出なかった。  私は事故にでも遭ったのではないかと心配になった。縁起でもない、と頭を振ってその考えを振り払おうとしたが、どうしても不安が付きまとう。私は念のため母にも連絡を入れた。母もお姉ちゃんの消息を知らなかった。お姉ちゃんがこの訪問を欠かしたのは風邪で休んだ一度きりで、そのときはきちんと連絡があった。私はベッドの上から動けないまま、何時間も、お姉ちゃんを待っていた。  待ちながら、お姉ちゃんに返すべき本を頭の中で何度も、何度も数えていた。  会ったらこれを言おう、と考えていた感想は、この焦燥の中では思い出せなかった。ああ、私はあの話の、どこが好きだったのだっけ。どこが気に入らなかったのだっけ。分からない。お姉ちゃんなら知っている。私に世界を教えてくれたお姉ちゃん。私のことを誰よりも知るお姉ちゃん。彼女となら話せる。彼女としか話せない。私には彼女しかいない。彼女だけは奪わないでください。神様。お願いです。  空が落ちてくることがあっても、お姉ちゃんの上にだけは落とさないでください。  落とすなら、私の上に落としてください。  どうか。

 いつの間にか眠っていた。何の夢を見たのかは分からない。目覚めた私の頬には涙が流れていた。  腕を揺らす感触がある。視界いっぱいの母の顔は蒼白である。嫌な予感が脳髄を焼く感覚がした。 「まどかちゃんが……」  母の声は耳障りな雑音にかき消されて聞こえなかった。それが自分の喉から発せられたものであることに、私は気絶するまで、気づかなかった。

 横転したトラックに吹き飛ばされた自動車の下敷きになって死んだ。  私が聞かされたのはそれだけだった。  それだけ聞けばじゅうぶんだった。  お姉ちゃんはもうこの世にいないのだから。  お姉ちゃんがいない世界に意味などないのだから。

 私は歩かなくなった。私は立たなくなった。私は読まなくなった。私は食べなくなった。衰弱していく私を、母は涙交じりに叱責し、父は見舞うことすらしなくなった。  私は死の匂いをまとっていた。それを忌避して周りのひとびとが私に話しかけなくなっているのを感じた。  それでよかった。もうなににも、愛も憎悪も感じない。それらの感情を懐かしく、忌まわしいもののように思う。私が遠くへ置いてきたもの。あの日お姉ちゃんといっしょに死んでしまった私のかけら。  すべて夢だったのだ。お姉ちゃんと過ごした日々はまぼろしで、私はずっとひとりぼっちだった。生まれてから今日まで一日も変わることなく、このベッドの上で凍てついた灰色の空を見つめていたのだ。  これが私の現実。燃え上がることのない埋火。灰の中で消えていく命。 「もう、死んだっていいよう」  虚空に向かってつぶやいて、その奇妙な一節に違和感を覚えた。ああ、これは私の中から生まれたものではない。この詩を作ったのは……昭和の詩人だ。こんなときまで、そんなつまらないことを覚えているなんて。  忘れよう。忘れよう。  そうして私は目を閉じた。こんな夜は、吹雪がうるさくて眠れやしない。  なんの計らいか、私は自宅に戻された。父と母の建てた家に帰るのは、十年ぶりのことだった。病室で何年も過ごしてきた私にとっては、そこは居心地の悪いよその家のように感じられた。  小さな部屋の清潔なベッドに横たえられた私からは、ほとんどの管が取り払われていた。両親の透明な面差しを見て、私は、自分が長くないことを悟った。 「もう苦しいことは終わりだからね。ここで最後までお父さんと、お母さんと一緒に過ごしましょう」  母の憑き物の落ちた顔を見るのははじめてのことだった。私は不思議に思った。私の人生に苦しかったことなどない。与えられる痛苦はすべて当たり前のもので、私という存在に根付いた、変えようのない現実だったからだ。  そうとでも思わなければ、自分の中で、最後の砦が壊れてしまう予感がした。  穏やかな日が続いた。病院のベッドの上で過ごすよりも一日を長く感じる。窓から見える冬枯れた空は、澄んで薄青い色をしている。あれを見ながら死ねるなら、悪くないと、思った。  父はなかなか自分の部屋から出てこなかった。長くは生きられない娘を真正面から愛せなかった人。無理もない。今では彼の気持ちもよく分かった。あきらめてしまえば、存外人生は楽なものなのかもしれない。  はたして私の生は、人生と呼べるような代物だったのだろうか?  何も生まなかった。何もなさなかった。何かに夢中になったり、したいと思ったりしたこともあった気がする。でももう思い出せない。思い出したくない。  朝が来て、午後が過ぎ、夕方になった。私は夕焼けが苦手だった。眩しくて目が痛くなるし、どうしようもなく胸が苦しくなる。  早く母がカーテンを閉めに来ないだろうか、と思いながら、視線を部屋の隅に向ける。ちいさな本棚が目に入った。不格好でへたくそにニスの塗られたそれは、新品同然の家具の並ぶ中で異質なものだった。  あの箱の中に、何があるのだろう。  そのとき私は、自分のものではないかのような激情の尾をつかみかけた。  確かな興味と激しい拒否感が私の中で相反する。開けたい。開けたくない。けれども私には、開ける力もない。  できないことは、最初から私の人生にはないもの。  だから、これでいい。私は本棚から目を逸らし、眩しい夕日に目をつむった。  目蓋の裏で血潮が、赤く燃えている。    その夜の父は様子が違っていた。感情の起伏に乏しい人だと思っていたが、少し興奮気味に私の部屋に入ってきて、妙なものを見せてきた。 「これはヘッドマウントディスプレイと言うんだ。目の前に映像を映し出し、頭を動かすことで三六〇度のそれを見渡すことができる。まるでその景色の中にいるかのような感覚が味わえるんだ」  私は眉をひそめた。頭に取り付けるらしい黒い箱は見るからに重そうで、映像の中で手を動かすことができるのだというコントローラーも滑稽なおもちゃに見えた。私の無関心をよそに、父はしゃべり続ける。 「ネットで流行っていて買ってみたらすごかった。ぜひほむらにも体験してほしい」  私はいらない、という顔をする。けれども箱は私の頭に取り付けられる。予想していた以上に重かった。ずり落ちそうになるそれの位置を父親が調整してくれたが、荷重のかかる頬が痛い。手にあの無骨なコントローラーが握らされる。簡単な操作を教えられるが、私は上の空で聞いていた。  いつもこうだ。何もかも嵐のようにやってきて、私に飽きて去って行く。拒むことはできないし、追いすがることもできない。人生は残酷だ。父はまた残酷なものを、私に見せようとしているのか。  目の前に現れたのは学校の教室だった。放課後の背面黒板の前で、夕日に照らされて宙を舞う桜の花びらが輝いている。なんの嫌がらせだろう。私は学校なんて行ったことないのに。  それに、夕日は嫌いだ。何かを思い出しそうになる。つらい気持ち。悲しい気持ち。あたたかい気持ち。あたたかい気持ち? それは誰のものだろうか? 「どうだ? ちゃんと見えているか?」  私は愛想程度に頷く。こうなったら父の私への関心が消えるのを待つしかない。  父がベッドサイドのいすに腰掛けた気配がした。彼はしずかな声で言った。 「丈夫な体にしてやれなくて悪かったな。父さんの家系は心臓が弱いらしい。俺がこんなでなければ、ほむらには……」 「気にしなくていい」  思わずそんな声が出た。かすれていたけれど、父にはきちんと届いたのだろう。私の言葉を反芻するような、沈黙があった。 「ほむらは優しい子だ。何もしてやれなくて、どこにも連れて行ってやれなくてすまなかった。だからせめて仮想現実の世界で、いろんな景色を見せてやりたいと思ったんだ」 「かそーげんじつ?」  私の前で夕日が輝き続けている。眩しすぎることも、沈むこともない、優しい光。優しいというのに、胸をかきむしりたくなるような痛みを覚える。あれを見たのは、いったいいつのことだったろう。 「ああ。事実上の現実。今お前は自分の部屋のベッドの上で俺と話している。けれどもお前が放課後の教室にいることも現実で、ここで起きることもまた、お前が実際に体験したことなんだ。その場所も、そこでの会話も、すべて確かにこの世界に存在するものなんだよ」  そう、と私は返した。それ以上どんな感想を言ったらいいか分からなかった。  そろそろこの黒い箱を外したかった。私の頭が支えるには重すぎる。父が話している間コントローラーも触ってみたが、少し移動したり向きを変えたりしただけで、現実の私の体と視界の動きの乖離に、気持ち悪くなってしまった。 「それで、その教室はどうだ? よくできているだろう?」  もうやめたい、と言おうとして、父の声にかき消された。私は言いかけたことを飲み込んで、頷いた。 「他のワールドにも行ってみよう。海が見えるワールドもあるんだ。貸してごらん」  ああ、また断れない。けれどもしかたない。私は父の腕が私の頭から黒い箱を取り去るのを待った。 「待って」  私は叫んだ。実際にはかすれたちいさな悲鳴だった。けれども私がそんな切羽詰まった声を出したのは久しぶりのことで、父は「どうした?」と聞いてきた。  目の前に、赤い髪の少女がいた。カーキ色のセーラー服を着て、胸にはペンダントが輝いている。 「シャナだよね? シャナ、私大好きで……」  教室の窓際で少女が、にこりと笑って手を振った。そして中空から火の粉をまとった刀を取り出す。それをあでやかに、振って見せた。 「すごい、本物のシャナだ……」  父が、ああ、パブリックで開いてたか。その人もほかのユーザーだから、気をつけて……と言う声が、遠くで聞こえた。それはリアルのこと。VRの中では、シャナはかっこよく刀を構えていた。 「全巻読んで、小説も書きました。友達ともたくさん話して……」  私が話していると、シャナは刀をしまいうんうんと頷いてくれた。私は思い出した。小説のこと。二次創作のこと。二度と会えないお姉ちゃんのこと。 「どうしてこんな大切なことを忘れていたんだろう」  シャナは優しく、私の頭を撫でてくれた。それで私は、自分が泣いていることに気づいた。  お姉ちゃんがくれたいちばん大切な思い出。私が私らしく生きた宝物の時間。魂が虜になった作品。夕日に透けるお姉ちゃんの輪郭。  やっと思い出した。死んでも忘れてはいけないことだったのに。  私は馬鹿だ、自分はもう死んだ人間だと思ってあきらめていた。残された生を穏やかに過ごすつもりだった。何も望まず、何もほしがらず、すべてを受け入れて終わっていくのが正しい在り方なのだと思っていた。  そんなのは間違っている! 私は生きている。生きているなら、命を燃やさなければならない。  あなたの火が、私の中でまだ燃えている。この火を絶やさないよう。あなたのいる空から見えるように。  大きな、大きな火を燃やそう。  私が泣き止むまで、シャナは私の頭を撫でてくれていた。父は黙って、私のそばに立っていた。

「楽しかったか?」 「とても、楽しかった」 「そうか。よかった」 「またやりたい」 「そうだな。またやろうな。好きなだけ、遊んでいいぞ」 「またやりたいし、本も読みたい。小説も書きたい」 「……。そうだな。ほむらは本が好きだったもんな」 「好き。これからもたくさん読むし書く。お姉ちゃんと約束したから」 「ああ……」 「でも、今日は少し疲れた。もう寝るね」 「ああ。おやすみ、ほむら」 「おやすみ、お父さん」 「おやすみ……」

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