花の名前
その電話がかかってきたとき、俺は一人暮らしのアパートでチューハイの缶を開けたところだった。 七年ぶりに聞くいとこの凛ちゃんの声は大人びつつも震えていて、俺も思わず緊張してしまう。 「それで、なにか用件があったんでしょ? わざわざじいさんちから電話番号聞き出したってことは」 ぎこちない世間話をする凛ちゃんに俺が言うと、押し殺した咳払いのあと、彼女は切り出した。 「さくらばあちゃん覚えてる? 最後に会ったのは勇の成人式のときだよね。そのあと勇のご両親、叔父さんと叔母さんが離婚しちゃって、一度も会えてなかったと思うんだけど」 いやな予感を覚えながら、俺は慎重に問う。 「ばあちゃんがどうかしたの」 「認知症が進んで体もすっかり弱っちゃったから、勇に会っておいてほしくて」 俺はどっと緊張が解けて、スーツを着たままの背を座椅子に預けた。そうして出した声は、昔凛ちゃんと話していたときのように間延びしていた。 「それはつまり……死ぬ前に、ってこと?」 「そういうことかな。ばあちゃん、勇のことすっごくかわいがってたでしょ。お互いに会いたいんじゃないかなと思って」 答える凛ちゃんの声も柔らかい。 「でも、そっちで父さんと鉢合わせたら気まずいよ」 「勇のお父さんは、めったにうちに来ないから大丈夫」 恋人でもできたのだろうか、と俺は頭の隅で考える。それに付随する感傷はすぐに振り払った。 俺は凛ちゃんがこの話を切り出したときにすでに出していた結論を、彼女に告げる。 「会うよ」 「いいの?」 俺は少し笑って話す。 「ばあちゃんのことは時々思い出すし、あんなにかわいがってくれたのに顔見に行けてないのは申し訳なかったから、助かるよ」 ああ、よかった、と凛ちゃんの漏らす安堵の言葉は、きっと心からのものだった。 俺はぬるくなったチューハイを煽りながら、彼女と予定を合わせる会話をして電話を切った。 窓の外では木枯らしが吹いている。俺は酒で温まった体を起こし、シャワーを浴びるためにスーツを脱いだ。
*
さくらばあちゃんの家でばあちゃんと再会したとき、俺はばあちゃんがびっくりしすぎてそのまま死んでしまうんじゃないかと思った。 「勇、すっかり大きくなったねぇ」 ため息交じりのその台詞に、俺は頭を掻く。 「成人式のときから身長は変わってないよ」 俺たちは居間のソファに座り、凛ちゃんに出してもらったお茶を前に話していた。ばあちゃんはしわだらけの手を拝むようにすりあわせる。 「そうかねぇ。なんだか顔つきがしゅっとして、立派になったよぉ」 「そりゃあ、もう二十七だからね」 俺はばあちゃんの細い肩をちらりと見る。ばあちゃんのほうは、ずいぶん縮んでしまったように見えた。顔立ちもくしゃっとして、しかし瞳だけは目が合うたびに潤んできらきらと輝く。にこにこと顔全体で笑う様子は、俺のよく知るさくらばあちゃんに違いなかった。 「ばあちゃん、普通に話せるし大丈夫そうじゃん」 ばあちゃんが席を外している間に凛ちゃんに言うと、彼女は遠慮がちに笑って眉を顰めた。 「話すぶんには問題ないんだけどね。忘れっぽいし、料理の分量をしょっちゅう間違えるんだ。だから家事は任せてない」 そっか、と俺が言うのと、廊下のほうからトイレのドアが開く音が聞こえてきたのは同時だった。 「まあまあ、いとこ同士でなに話してたの?」 ソファに歩を進めながら、ばあちゃんは邪気なく訊いた。俺は少しどきっとして、居間から見える庭を指す。 「庭の花がきれいだから、ばあちゃんに案内してもらおうかなって話してたんだ」 凛ちゃんを横目で見ると、うんうんと頷いている。ばあちゃんは破顔した。 「ああ、いいよぉ」 そうして俺とばあちゃんはガラス戸を開けて、サンダルを履いて庭に降り立った。凛ちゃんは、お茶を片付けるために家の中に残った。 ばあちゃんは俺の前をゆっくりと歩いていく。二人の足は色とりどりの花壇の前で止まった。 「ここらの花はきれいだねぇ。この花の名前は、ええと……」 俺はばあちゃんの隣に立ち、花を一つ一つ指さして言う。 「これはコスモス、こっちはサルビア。奥に咲いてるのはサザンカだね」 ばあちゃんは俺を振り返り、目を丸くする。 「すごいねぇ! 勇はそんなにたくさんの花の名前、どこで覚えたの?」 「……ばあちゃんが教えてくれたんだよ」 俺は奥歯を噛みしめて言った。ばあちゃんはそう、とこぼして花を見つめる。 「何の花だろうねぇって思ってたから、勇が教えてくれてすっきりしたよ。そうそう、そんな名前だったねぇ」 そう言って花に注ぐ視線は温かい。しかし、俺の心はばあちゃんの変化に少なからずショックを受けていた。 それでも、と思う。ばあちゃんが忘れたら、俺がこうしてまた教えればいい。何度聞かれても、どんなことでも、俺は答えよう。 それが、いろいろなことを忘れつつあるばあちゃんの人生に、彩りを与えるものだと信じて。 「確か、桜の木の下にニラがあったはずだよ。それも見に行こう」 俺が広い庭の一角を示すと、ばあちゃんは目を細めた。 「うんうん。勇は記憶力がいいねぇ。お父さんに似たんだねぇ」 俺はそれには答えず、地面に落ちている枯れ葉を踏んだ。
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それから俺は時たま、ばあちゃんの家を訪れるようになった。 ばあちゃんと同居しているのは伯母さんだけだった。彼女一人でばあちゃんの世話を含め家のことを切り盛りするのは大変だろうと、俺は掃除や病院の送り迎えといった雑用を手伝うようになった。 「いつもごめんね。凛にもやらせたいんだけど、仕事が忙しいみたいで」 あるとき顔を合わせた伯母さんにそう言われた。俺は普段世話になっているお礼だというお菓子を受け取りながら、微笑んで答える。 「いいんですよ。じいちゃんにはなにもしてあげられなかったから、そのぶんばあちゃんのために働きたいんです。これからもやらせてください」 伯母さんが潤んだ目を伏せたのを見て、俺は誰かのためになる充足を久しぶりに感じた。 しかし、一方でばあちゃんの認知症は重くなっていた。同じ話を繰り返すようになり、家事をするなと言いつけられているのにもかかわらず台所に立った。 俺はしょっちゅう家にいるわけではないからそれほどストレスは感じなかったが、同居している伯母さんはそういうわけにはいかないのだろう。ある日、台所でばあちゃんを叱っているところに居合わせてしまった。 ばあちゃんが肩を落として自室に戻ったあと、俺は伯母さんに言った。 「俺も久しぶりにばあちゃんの料理食べてみたいです。俺が見張ってますから、やらせてあげられないでしょうか」 伯母さんは逡巡したのち、許可を出してくれた。俺は伯母さんに感謝し、せっかくだからと凛ちゃんも呼んでばあちゃんの料理を食べる会を開くことにした。 涼しい秋の夕方、俺と凛ちゃんはばあちゃんとともに家の台所にいた。俺が揃えた材料を、ばあちゃんがたどたどしい手つきで切ったり、炒めたりするのを、凛ちゃんと注意深く見守っていた。 「味付けはなに使う?」 材料が鍋の中でしんなりした段階で、俺はばあちゃんに聞いた。ばあちゃんは木べらを置いて答える。 「お醤油、みりん、酒、砂糖を同じだけだね」 「おだしは使わないの?」 まな板を洗っていた凛ちゃんが聞く。ばあちゃんは普段より溌剌とした声で言った。 「お野菜とお肉からだしが出るからね。要らないさぁ」 急にばあちゃんが頼もしく見えて、俺は嬉しくなった。 そうして黄金比率のつゆの中で具材が煮えるのを待っていると、伯母さんが帰ってきた。台所ののれんをくぐった彼女は疲労感を漂わせていたが、鼻の穴を膨らませると、いいにおい、と素直な声で言った。 二十分後、食卓にはばあちゃんお手製の肉じゃがと、凛ちゃんが用意した副菜が並んだ。俺たちは席について、手を合わせる。 「いただきます」 ばあちゃんの肉じゃがに真っ先に箸を伸ばした凛ちゃんは、一口食べると目を輝かせた。 「おいしーい!」 俺も肉じゃがを口に運ぶ。懐かしい味に唾液がじゅわっと湧いてくる。 「おいしいよ、ばあちゃん」 ばあちゃんはにこにこと、俺たちの食べる様子を見ている。 「ありがとうねぇ。ふたりが手伝ってくれたおかげだよ」 伯母さんも言葉にこそ出さないが、いつもより頬が緩んでいるように見えた。 みな料理を完食し、俺と凛ちゃんは協力して後片付けを行った。 「おいしかったね、ばあちゃんの肉じゃが」 皿を拭きながら凛ちゃんが言う。俺はそうだな、と答え、テーブルでお茶を飲んでいるばあちゃんに話しかける。 「ばあちゃん、また料理作ってよ」 ばあちゃんは今日一番の笑顔で言った。 「ああ、任せておいて。次はなにを作ろうかねぇ」 昔に戻ったかのような温かい時間。この日のことと、ばあちゃんのレシピを忘れないようにしよう、と俺は思った。
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ばあちゃんが倒れた。正確には、家の外で転んだ。 俺たちがばあちゃんに肉じゃがを振る舞ってもらった次の日、ばあちゃんは一人で近所のスーパーに出かけた。 家から一人で出るな、という伯母さんの言いつけを破って、おそらく料理の材料を買いに行ったのだろう。道中、転んでアスファルトに頭を打ち付けた。 ばあちゃんは市内の病院に入院し、もともと要介護だったこともありそこで療養することになった。 それを、伯母さんから電話で告げられた。 「俺のせいです。俺がばあちゃんに料理作って、なんて言うから、ばあちゃんがやる気出して……」 俺が弱々しい声を出すと、伯母さんは言った。 「勇くんのせいではないよ。誰も気にしてないわ」 彼女の言葉に、ひとかけらも俺を責めるような響きはなかった。諦めたような、覚悟していたとでも言いたげな、伯母さんらしい口調だった。 凛ちゃんからもLINEが来ていた。彼女も同じことを考えていたらしく、短いメッセージから自責の念と悲しみが伝わってきた。 『凛ちゃんがいてくれてよかったよ。独りじゃ抱えきれなかっただろうから』 俺が彼女にそう伝えると、すぐに返信が来た。 『独りになんてしないよ。たったふたりのばあちゃんの孫でしょ』 そうだね、と俺は返す。凛ちゃんの言葉を、薄っぺらい布団の上で噛みしめた。 これから冬になる。ばあちゃんはいつ退院できるのだろうか。老人は冬の寒さに弱いと聞く。冬を越えて、庭の桜を見られるだろうか。 不安がっていても仕方ない。俺はばあちゃんのためならなんでもしよう。今まで返せていなかった恩を、精一杯返していこう。 それが俺がばあちゃんにできる、せめてもの償いだから。
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ばあちゃんは見舞いに行くたびに弱っていった。ベッドの上に投げ出された手足からはごっそりと筋肉が落ち、固形物を食べないことで腹部はへこみ、肌の表面は乾いて粉を吹いている。 認知症のほうも一気に進行した。家に帰りたいと泣き、自分に夫がいたことも覚えていないようだった。 「ばあちゃん、おむつと着替え、届けに来たよ」 俺が病室のばあちゃんを訪ねると、ばあちゃんは不思議そうな顔で俺を見つめた。 「あら、あなたはどなた?」 「……ばあちゃんの孫だよ」 そうですか、とばあちゃんは笑うが、その表情はよそ行きの、親しみのこもらないものに感じられた。 俺が黙って備え付けのキャビネットに持ってきたものを納めていると、ばあちゃんはよそ行きの声のまま言った。 「あなた、小さな男の子を見かけませんでしたか」 俺ははっとしてばあちゃんを振り返る。ばあちゃんはつぶらな瞳で俺を見つめている。 「五歳くらいの、目のまん丸い男の子なんです」 「どんな、男の子ですか」 ばあちゃんは昔の人らしい、上品な口調で言う。 「花が好きな男の子でねぇ。春になるといっしょに桜を見たものです。そういえば、あなたはその子に似ているような……」 ばあちゃんが枕の上でかすかに首をかしげる。俺はばあちゃんの手を取りたい衝動に駆られた。それは俺です、その男の子はあなたの目の前にいます、という台詞が、喉まで出かかった。 しかし、そうはできなかった。ばあちゃんは再び微笑んで訊いた。 「あら、あなたはどなた?」 俺は足下におむつが散らばっているのに気がついた。今にも泣き出したい気持ちを堪えて答える。 「あなたの、孫の、勇だよ」
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ばあちゃんが亡くなった。薄青い空の下、桜の咲く季節だった。 ばあちゃんはついぞ家に帰れなかった。ただ、深い眠りの中で、苦しまずに息を引き取ったであろうことが俺にとって救いだった。 葬式では絶交した父親と顔を合わせるかもしれない。それでも、俺はばあちゃんの葬式に参列した。 ばあちゃんの親族は、ばあちゃんのように俺に温かかった。俺は幾分がほっとして、伯母さんと凛ちゃんに会うと、短くばあちゃんを悼む言葉を交わした。 ふと、会場で視線を感じ、振り返ると父親がこちらを見ていた。彼は隣に立っていたばあちゃんの親戚に背中を押され、俺のほうに歩いてきた。 「元気にしてたか」 かつて母親を怒鳴りつけていた声からはすっかり毒気が抜けて、その物腰はよそよそしい親戚のおじさんそのものだった。 「おかげさまで」 「母さんのことでは世話になった」 「自分のばあちゃんなので」 それだけ言うと、二人とも押し黙ってしまった。あまりにも気まずいので、そのまま立ち去ろうかと思っていたとき、俺は父親の肩に小さな白いものを見つけた。 「それ」 「ん?」 父親も、俺の見つめていたあたりを見る。彼が指でつまんだのは、桜の花びらだった。 「ばあちゃんが」 自然と、俺はその言葉を口にしていた。 「小さな男の子を探していました。目が丸くて、花が好きな」 「ああ」 「父さん、花好きだったよね。昔、じいちゃんに肩車してもらって、家の桜の前で撮った写真見たことがある」 「……俺じゃない。ばあちゃんが探していたのは、お前だ」 「お前じゃなくて、勇って呼んでください」 「……勇」 「父さんでしょ、きっと。ばあちゃんが父さんのこと大好きだったの、知ってるし」 父さんの大きな手から花びらが落ちる。父さんは目を覆って、ぐ、と嗚咽を漏らした。 それを見て、俺の視界もぼやける。俺はポケットから取り出したハンカチを、先に父さんに渡した。 二人で涙を拭い、見合わせた顔は、確かによく似ていた。 「この際、両方ってことでいいんじゃないの」 急に後ろからした声に驚いて振り返ると、凛ちゃんが少し離れたところに立っていた。彼女は控えめな声で言う。 「そろそろ式が始まるから呼びに来たんだけど、親子水入らずって雰囲気で話しかけにくくて……」 俺は咄嗟に凛ちゃんの手を握りしめて言った。 「ありがとう」 「どういたしまして?」 彼女は何のことか分からない様子で微笑み、お先に、と言ってその場を後にした。 「行こうか」 父さんが言う。俺は頷いて、ハンカチをしまった。 ふと、先ほど落ちたはずの花びらを探して床の上に視線を走らせる。色の濃い絨毯の上でそれは目立つはずが、白い花びらは見当たらなかった。