étoile
星空を見上げていた。 一粒一粒が宝石のように輝く星々のちりばめられた群青色の空。その中空を燐光を放つ蝶が何羽も、何羽も泳いでいくのを見ていた。 夜気の冷たさは感じない。地上を埋め尽くす光の花を揺らしているはずの風も頬には触れない。花の蜜や豊かな草のにおいも、意識しなければ想像することすらない。 仮想現実。私が見ているのはヘッドマウントディスプレイに表示された三百六十度の映像だ。私が聞いているのはイヤホンから耳孔に注がれる音響データだ。私が実際にいるのは四畳半の部屋の中心に置かれた事務椅子の上で、ここには私以外いない。私はひとりの部屋で、虚空に向けて話しかけ続けている。 リアルでは。 でもVRの中では、パートナーと並んで東屋の上に座り、どこまでも続く花畑と、頭上を覆う美しい夜空を眺めていた。 「こういうのはVRならではだよね。こんなにたくさんの星も、色の変わる花畑も、リアルでは見られない」 そう言って彼は白い吐息を吐いた。四秒ごとに表示される吐息のパーティクル。所詮はデータのそれを、私は彼の生命の証のように、愛おしく思っていた。 「そうだね。リアルではまだ再現できない世界に行けるのが、VRのいいところだよね」 でも、と私は少し声を落として言う。 「人間の目で直接景色を見るならば、その解像度は無限なんだ。アナログの質感と臨場感にVRはかなわない。やっぱりVRはリアルの代替にはならないよ」 パートナーがこちらを振り向く気配がした。横を見ると、やはりかわいらしい猫耳少女が、私を見ていた。 「代替になるための技術じゃないよ。VRはどこまでもリアルを模倣し続ける偽物ではない。それ自体が平行して唯一無二であり続けるもう一つの世界なんだ。ここにしかないもの、ここでしか生まれないものはたくさんある。君と僕の関係のように」 僕は黙って、それから眉を下げて笑う表情をして、彼の頭を撫でた。 「その通りだね。大事なことを忘れていたよ」 「ああ。だから」 と彼は続けた。 「過渡期にいてその両方を知っている僕たちは、それぞれのいいところで日常を彩ることができる。僕はヘッドマウントディスプレイをかぶれば毎日、三百km離れたところにいる君とこうして手をつなぐことができる。そのたびに、かけがえのないひととき触れた君の手の大きさや滑らかさを思い出す」 彼は学生の男の子で、私は社会人二年目の男だった。私たちはもともと同性愛者というわけではなかった。しかしVRChatで出会って、さまざまなワールドで多くの時間を過ごすうちに、互いに好意を抱きはじめた。彼でなければ付き合わなかったと思う。彼だから、好きなのだと思う。 「よくそんなくさい台詞が言えるね」 「嫌いかい? ここには君と僕しかいないから、言ったんだけどな」 彼が頬を染め薄目で僕を見る。照れ隠しはすぐに見透かされてしまう。彼は本当に私のことをよく知っている。家族よりも誰よりも、私の深いところまで降りてきてくれた人。私を知っても嫌いにならないで、トラウマごと抱きしめてくれた人。 「好きだよ」 彼の目を真っすぐに見て言う。彼は笑う。彼が笑うたび、世界はその色彩を増す。 「僕も好きだよ」 誰も見ていない東屋の上で、私たちはどちらからともなくキスをした。美しい顔が消える直前、私はリアルでそうするように、目を閉じた。