カウンターの向こう側
私はその人を常にマスターと呼んでいた。 こんな書き出しでこの話を始める理由は二つある。 一つめ。私が有名小説家の書き出しを真似したくなってしまう程度の、安直な文学オタクだから。 二つめ。「マスターと呼んでいた」のは過去、しかし長い期間のことで、今は彼の本名を知っているから。 彼との出会いは、私の学生時代にまで遡る。 十七歳のころ、お金のない高校生だった私は、「先輩から手頃なカフェを教えてもらったから一緒に行こう」と言う友人に連れられてそのカフェを訪れた。 その店は開店したばかりにもかかわらず、マスターの趣味か外装や内装に汚し加工が施されており、しかし不潔な印象は一切抱かせなかった。 駅に近い商店街にひっそりと佇む二階建ての店に入ると、ガラスケースに収められたデザートがカウンターの表面で出迎えてくれる。手前にあるクリアファイルで綴じられたメニューを書見台の上で眺めていると、奥から店員が現れた。 「いらっしゃいませ」 落ち着いた声に目を上げる。カウンターの内側でこちらを見つめるのは、大学生くらいに見える年若い男性だった。カジュアルな白いシャツの上にエプロンを着け、眼鏡の奥の茶色い瞳は理知的な光を宿している。 大人びた雰囲気をまとっているものの、年齢からして、アルバイトなのだろう、とそのときは思った。 カフェは注文と同時に会計を行うスタイルだった。私と友人は年相応のぎこちなさでそれらを済ませ、アルバイトらしき男性の案内で階段へと向かった。ふと気になって厨房に入る彼をちらりと振り返る。その後頭部は、美容院に行ったばかりのようにきれいに刈り上げられていた。 二階は客席になっていた。シックなテーブルと椅子が並び、白い壁に囲まれたボックス席まである。 客は友人と私だけだった。私たちはボックス席に座ると、店の雰囲気に当てられてひそひそと話した。 「店員さん若かったね」 私が言うと、そうだねー、と友人は答え、少し首を傾げた。 「店長さんなんじゃない? 下から話し声聞こえないし」 店長とはある程度の年齢に達したひとにしか勤まらないもの、と思っていた私は、彼女の返答を一笑に付した。 「あんなに若いのに? 大学生かそのちょい上くらいにしか見えなかったけど」 「あんたの好きな村上春樹だって、在学中に店を持ったんだよ」 私は素直に、知らなかった、と言った。友人は得意げに笑った。 そうして二人でおしゃべりをしていると、階段のほうから硬い足音がして、先ほどの店員が盆に載せたランチを運んできた。 最初は友人のぶん。次に私のぶんを彼はもう一度階段を下りて、上がって、運んでくる。 学校のひょろひょろした男子たちのものとは違う大きくて筋肉質な手が、私の前に壊れ物を扱うように盆を置く。 「ありがとうございます」 私のちいさな声に、彼は柔らかく、ごゆっくりどうぞ、と言った。 友人と私は寮生活で躾の行き届いた学生らしく、いただきます、と丁寧に言って食事を始めた。 食事の途中、友人は思い出したかのように言う。 「やっぱり一人なんじゃない?」 私は、そうだね、と答えた。 ランチをきれいに平らげて一階に下りていったとき、カウンターに彼の姿はなかった。 ただ、店のドアを開いた刹那、後ろから聞こえた「ありがとうございました」という声が、耳に残った。
*
それからというもの、私はときどきこのカフェを訪れるようになった。 初めてできた彼氏とのデート。友人との試験勉強。寮の相部屋で暮らしている相手と喧嘩したときの避難先。 静かで、居心地のいいカフェの雰囲気が私の性に合っていたのだ。 大学進学を機に上京してからも、帰省のたびに私はそのカフェとマスターを懐かしんで店のドアをくぐった。 マスターである彼は、初めて会ったときと変わらない物腰で客である私を出迎え、注文を聞き、食事を席まで運んでくれる。 とても丁寧で、しかし店の注文形式やカウンターと客席が離れている構造も手伝って、客にほとんど干渉することのない接客スタイル。 それが逆に、私にマスターへの興味を引き立て、想像力を膨らませた。 開店当初から今に至るまで、若い容姿を保ち続けているが何歳くらいなのだろう。実際に若いとして、どのような経緯で店を持つに至ったのだろう。見るからに育ちが良さそうだが、飲食店を切り盛りする立場として場数を踏んでいそうでもある。地元の出身なのだろうか。定休日である水曜日にはなにをして過ごしているのだろうか。 彼の内情は、謎に包まれている。 けれども、それでいいのだと思っていた。 社会人になってインターネットでオタク文化を追うようになった私は、『推し』という概念を知った。 私のマスターへ抱く感情は、みんなの言う『推し』へのそれだった。 彼のことは気になる。彼の店で過ごす時間が好きだし、彼の料理を美味しいと思うし、彼の姿を見て言葉を交わすことを楽しみにもしている。 それ以上は望まない。 だから、彼への想いは決して恋ではなかった。 彼のことをカウンターのこちら側から眺め、料理を介して彼と関わることを幸福だと感じている。 この店に来れば、彼に会える。 五年先も、十年先も。 そんな、関係と呼ぶには大げさな、ささやかな縁が大切だった。 大切だと、思っていた。 私の甘い夢が崩れたのは、マスターと出会ってから十年の時が経過した晩冬のことだった。
* 都会での生活に限界を感じ、地元に戻ってきた私は、寒さの和らいだ冬の日にあのカフェに行くことにした。 履き慣れたヒールで進むシャッター通りの中に、お目当てのカフェはちゃんとあった。 それだけで私の胸はいっぱいになる。私は少し歩を早めて店に近づき、ドアを開けた。 ガラスケースに並ぶ今日のデザートは、マスター自慢のガトーショコラとレアチーズケーキだった。私はそれを横目に見ながら、使い込まれたメニューをめくる。 ほどなくして、唐突に、必然的に、その気配は現れる。 「いらっしゃいませ」 内気なティーンエイジャーでない私は、彼の茶色い瞳を見て微笑む。 マスターがカウンターの向こうで浮かべた人のいい笑顔の中に、親しみのようなものを感じたのは、きっと私の願望だった。 「注文お願いします。ガパオライスと……」 会計を済ませ、私は階段へと向かう。厨房に向かうマスターの後ろ姿を目で追ってから、それが私がこの店を訪れたときの癖であることを自覚した。 平日の午後、客席に人影はなかった。 私はお気に入りのボックス席に腰掛け、ハードカバーの小説を開いて食事が運ばれてくるのを待った。 大好きな店で、お気に入りの小説を読みながら過ごす時間はあっという間に過ぎる。しばらくしてがっしりしたブーツが立てる足音が、階段を上ってくる。 本を閉じてソファの隣に置き、マスターがテーブルに盆を置くのを眺める。 この瞬間が、たまらなく好きだった。 「ありがとうございます」 私がちいさく頷くと、彼は調律されたピアノのように、初めて会ったときと同じ音程で言う。 「ごゆっくりどうぞ」 私は無言で手を合わせて、食事を始めた。 ガパオライスは辛すぎない旨味の強い味で、炊きたての白いごはんが進んだ。上に乗った目玉焼きの黄身をとろりと崩すと、さらに甘みが加わる。時々サラダを口に運び、優しい味わいのわかめスープを飲んだ。 マスターが元気そうでよかった。 その実感が食事を進めるにつれて高まってきて、引っ越し疲れで息抜きを求めていた私の心身を癒やしてくれる。 私は一度箸を止めて、水を口に運ぶ。 ふと窓から通りを見下ろすと、このカフェに入ってくる二人組の婦人の姿が目に入った。 このカフェで他の客の姿を見かけるのは珍しかった。店の経営状況を心配したこともあるくらいだ。 私は、マスターの店が賑わうのはいいことだ、と思いながら食事を再開する。 しかし、ほどなくして階下から聞こえてきた会話が、私の箸を再び止めさせた。 「マスター久しぶり~。元気だった?」 親しげな女性の声。答えるマスターの声は単語が聞き取れるほどの音量ではないものの、愛想良く客に返していることが分かる。 まぁ、そんなこともあるか、と私は思った。 計算外だったのは、そのあとだった。 二人の婦人はふうふう言いながら階段を上ってきて、私から見て斜め後ろの席に座ってからも、闊達におしゃべりを続けた。 「さっきのがマスター? イケメンじゃない」 「でしょ? 私大ファンなの。あれで独身だって言うんだからもったいないわぁ」 「え、そうは言っても奥さんもらうような歳じゃないでしょ」 「大学出てすぐお店持ったって言ってたから、えーと……今年で三十三じゃないかしら」 「うっそぉー。お肌とかぴちぴちなのに。なにが若さの秘訣なのかねぇ」 「ジムに通ってるらしいから、それなんじゃないかしら。でも、どこのジムかまでは教えてくれなかったのよねぇ」 「当たり前でしょ、恵子ちゃん。若い男の子にそんなにぐいぐい行くもんじゃないわよ」 彼女たちの声は階下までは届かない、けれども私の耳には容赦なく這入り込んでくるボリュームで、私は耳を塞ぎたくなった。 聞きたくもないマスターの個人情報。私が十年通っても知ることのなかったそれを、彼女たちは知っていて、楽しい雑談の種にしている。 マスターが彼女たちには話してもいいと思ったこと。彼のプライベートを本人のいないところで知ってしまう罪悪感。自分のマスターの像が暴力的なまでに不意に、人間味を帯びてきたこと。 マスターは人間だ。プライベートが存在することは当たり前だ。けれどもそれを客である私の前では見せないように振る舞ってきた。私たちは店員と客という関係を保って、ささやかな縁で繋がり続けてきたはずだ。 それが損なわれたわけではない。ただ、彼の知らないところで、彼自身のことを知ってしまうことが。 とても苦しい。もしも聞くようなことがあれば、あなたの口から聞きたかったのに。 少しでも気を紛らわせるため、口に押し込んでいたマスターの手料理は、冷たく、味がしなかった。 普段はデザートを追加で頼むが、私は食べ終えると素早くコートと鞄を身につけ、席を離れた。 日常の破壊者である婦人たちのいる場から、一刻も早く立ち去りたかった。 階段を足早に下りていく。眼下に、婦人たちに料理を運んできたらしいマスターが階段脇に控えて私が通り過ぎるのを待っているのが見えた。 独身で、三十三歳で、ジムに通っている。 いつもどおりの凪いだ表情が目に入った途端、再び私の頭の中は先ほどの婦人たちの会話でいっぱいになる。 足下が覚束なくなったのはそのせいだ。 がくんと不格好な音がして、一瞬の浮遊感のあと、私の体は下へと落ちていく。 「お客様!」 マスターの焦った顔が目に入る。彼は盆を放り出して、足を滑らせた私のもとへ駆けてくる。 危ない、と思ったときには、私は彼のがっしりした体躯の上に落下していた。
*
全治二週間の腕の骨折。彼が救急車で運ばれていった日の翌日にかかってきた電話で、彼から直接告げられた。 「本当に申し訳ありません。医療費のほうは負担いたします。お店も休まないといけないでしょうし、なんとお詫びを申し上げたらよいか……」 自宅でスマートフォンを耳に当て、うなだれる私に彼の声が明朗に言う。 「お気持ちだけで十分ですよ。お客様を守るのは当然のことです。それに、元はと言えば階段に手すりや滑り止めをつけていなかった私の落ち度ですからね。そんなことより、あなたに怪我がなくて本当によかったです」 声だけでも分かる。私の心を軽くするための優しさももちろんあるだろうが、彼自身が事故の責任について、ひとかけらでも私にあるとは思っていないのだ。 やはり、マスターは私の思っていたとおりの人だった。 優しくて、誰も憎まなくて、客の危機には身を挺して庇う。 あの日の事故で私の下敷きになったマスター――今では救急隊員とのやりとりから、本名を知っている――は、打ち所が悪く上腕の骨を折ってしまった。 対して、彼の胸板に受け止められた私は階段を滑り落ちた際に尻餅をついた程度で、ほとんど怪我は負わなかった。 マスターの上で私が青ざめていると、騒ぎを聞きつけた上階の婦人たちが降りてきて、救急車を呼んだりマスターになにかと世話を焼いたりした。 彼女たちは私のことも気遣ってくれて、彼女たちに感じていた暗い気持ちはすっかり吹き飛んでしまった。 そんなことよりも、私はマスターのことが心配で、申し訳なくて。 救急隊員が駆けつけるまでのおおよそ五分間、マスターの指示で店を閉めたり、婦人たちを手伝ってマスターを介抱したりしたが、ほとんど心ここにあらずだった。 だから、今日この電話がかかってきて、マスターの声が聞けて、文字通り涙が出るほど安心している。 「本当に、申し訳ありません」 何度目になるか分からない謝罪の言葉を述べると、電話口の向こうの彼が沈黙した。それがなにかを雄弁に語っている気がして、私は後悔に加えて不安に襲われてしまう。 しかし、次に耳に入ってきたのは軽やかな提案だった。 「それでは、商店街の本屋で料理本を買ってきてくれませんか? 入院二日目ですがすでに暇で。お手数ですがお願いしてもよろしいでしょうか?」 「はい」 私は反射的に、はっきりと返事していた。 「そんなことでいいのでしたら喜んで。なにを買ってきましょうか?」 マスターが温かく笑って、本の名前を挙げる。 「新作のメニューを考えるネタがほしいので、イタリアンの本をお願いします。確か落合先生の新刊が……」 料理本のことを話すマスターは楽しそうで、彼の意図も手伝って私の気持ちも明るくなる。 「はい。では以上三冊を、病室にお届けいたします。お部屋番号はどちらですか?」 メモを取り終えた私が聞くと、マスターが答え、 「それでは、明後日の十六時に。お待ちしています」 と言って電話は切れた。 マスターに怪我を負わせてしまったことはとても心苦しい。取り返しのつかないことをしたと思っている。 しかし、こうして彼と個人的に合う予定ができたことに、喜びを抑えられないことも事実だった。 私は身支度を調えると、すぐにマンションを出て商店街へと向かった。
*
市の総合病院は古いが見舞いの手順も順路も整理されており、私はスムーズにその病室に辿り着くことができた。 病室の番号とその下に記された名前を見上げ、ドアをノックする。 「○○です」 名乗りを上げると、聞き慣れた声が返事をする。 「どうぞ」 「失礼します」 ドアを開けて目に入ったのは、白いベッドに下半身を横たえ、背筋を伸ばしているマスターだった。ギプスに包まれた片腕を包帯で首から吊っており、春の空のような薄い青色のパジャマを着ている。 こうして見ると、やはり痛々しい。 「こんにちは、○○さん」 私の内心を知ってか知らずか、マスターはにこやかに挨拶し、私も挨拶を返す。 彼に勧められてベッド脇の丸椅子に腰掛けると、私は深々と頭を下げた。 「このたびは、本当に申し訳ありませんでした」 マスターは笑って言う。 「それはもう言わない約束にしましょう。僕が落ち込んでしまいます」 顔を上げて、すみません、と言うと、柔和なマスターの顔が目に入った。少し髭が伸びている。 「あ、これ、頼まれていた本です。こちらで間違いはありませんでしょうか」 私は手に提げた紙袋から料理本を取り出してマスターの前に差し出す。マスターは器用にその三冊をまとめて持ち上げると、瞳を輝かせて表紙を眺めた。 「はい。お使いありがとうございます。本は商店街のあの本屋で買うと決めているので、助かりましたよ」 「あの商店街に、愛着があるんですね」 私が言うと、マスターは掛け布団の上に料理本を並べて頷いた。 「地元ですからね。物心ついたときから、買い物というと決まってあの商店街でした。○○さんも地元の方ですよね?」 これだけ何度もマスターのカフェを訪れていれば、顔を覚えられるのも不思議なことではない。私は淀みなく答える。 「はい。出身は少し西のほうですけど、あの地域の高校に通っていました」 「やっぱり」 彼はさらりと続けた。 「○○さん、△△高校の学生さんでしたよね? あの高校は制服がかわいいから印象に残っていますよ」 私は少し驚いて、口ごもる。 「マスターって意外と……」 「うん?」 眼鏡の向こうで茶色い瞳が問いかける。それに見透かされているような気がして、私は正直に言ってしまう。 「軟派なんですね」 ははは、とマスターは笑い声を上げた。屈託のない、初めて見るマスターの表情だった。 「○○さんも、結構ストレートな言葉を使われる方ですね。ずっとおとなしい方だと思っていました」 「それは、客ですから」 マスターは控えめに顎を引いて肯定した。 「そうですね。あの店は、お客様と僕がほとんど干渉しないスタイルで作りましたから、無理もありません。でも、何年も店に通ってくださる○○さんとお話しできて嬉しいですよ」 マスターはきっと、客の皆のことを愛している。そこに差はほぼなく、私が私でなくとも彼は同じ言葉をかけただろう。私自身への興味を含むことのない、けれども彼の本心であると信じられる確かな響きで。 だから私は心からの笑みを浮かべ、本心を伝える。 「私もマスターのお店を気に入っています。きっかけはともあれ、こうしてお話しできて嬉しいです」 マスターは軽く目を見開き、それを静かに伏せた。長い睫毛が彼の逡巡を表すかのように、かすかに震えている。 「あの、病室でマスターと呼ばれるのは気恥ずかしいので」 しばしの沈黙のあと、ちいさな、しかし飾り気のない声で彼は切り出した。 「名前で呼んでください。ここでは僕は……店長ではありませんから」 私はこみ上げる黄金色の喜びのままに、彼の名前を呼ぶ。 「はい、瀬羽さん」 そうして彼が浮かべたはにかんだ笑みは、胸が苦しくなるほどきれいだった。
*
私たちはいろいろな話をした。 瀬羽さんが店を始めるようになったきっかけ。休みの日はなにをして過ごしているか。私は地元を出てからどんな生活をしてきたか。今まで食べてきた中でお気に入りのメニュー。レシピ本をめくりながら料理の話もした。 気がつけば、面会終了時刻が迫っていた。 この部屋に入ってきたときは、マスターと客だった。 今は昔からの知人のような親しみを込めて、私たちは別れの挨拶をする。 「リハビリが終わったら、また店に来てください。新作をご用意してお迎えしますよ」 「楽しみにしています。瀬羽さんもリハビリ頑張ってください」 片手を振る瀬羽さんに見送られて、病室を出た。 患者の夕食を準備する職員の間を抜けて、私は病院の一階に下りる。 おなかをすかせていた私の視線は、売店に並んだ弁当に吸い寄せられるが、その誘惑を断ち切って出口へと向かった。 今日は自炊してみよう。瀬羽さんみたいに上手くは作れないだろうけれど、少し凝ったパスタに挑戦しよう。 花の香りを含んだ宵闇の空気を嗅ぎながら、私はスーパーマーケットへの道のりを急いだ。
*
一ヶ月ぶりに訪れた瀬羽さんの店の前には、新作メニューをアピールする看板が立てられていた。 私はそれをじっくり眺めてから、ゆっくりとドアを開ける。 ガラスケースにはガトーショコラと苺のタルト。改めて、デザートまで作れる瀬羽さんは多芸だなと思う。 フルーツのつやつやした光沢に目を奪われていると、その人がカウンターに現れた。 「いらっしゃいませ」 おとなしい客ではない私は、にっこり笑って彼の目を見つめ返す。 「こんにちは、マスター。お加減はいかがですか」 「おかげさまで、全快です。筋肉だけは落ちてしまったので、調理場でダンベルを握って鍛え直しているところですよ」 「瀬羽さんワンマンなのに、そんな時間あるんですか」 私が目を丸くすると、彼はいたずらっぽく笑む。 「二分でも時間ができたら鍛えるようにしているんですよ。流し台の下には、調理器具と一緒にダンベルを置いています」 「へえぇ、ジムだけじゃなかったんですね」 「それは、調理場は戦場ですから」 冗談めかして言うが、彼が言うからにはそうなのだろう。 私は相づちを打って、メニューを指す。 「それでは、今日はイタリアンチキンライスのセットをください。ホットの紅茶と、苺タルトもお願いします」 彼は素早くマスターの表情に切り替えて復唱し、レジを打った。 会計を済ませ、階段に向かう。意識して目で追った瀬羽さんの後ろ姿に覚えかけた感情を、私は胸の底にしまった。 階段にはぴかぴかの手すりと、一段一段に滑り止めがつけられていた。私はスニーカーで注意深くそれを踏みながら、二階を目指す。 私がいつも座っているボックス席には、女子高生の二人組がいた。一瞬こちら側に意識が向けられるのを感じたが、すぐにひそひそ声のおしゃべりに戻っていった。 ここのごはんおいしいね、という他愛のない感想。私は彼女たちの秘密の会話をそれ以上聞かないようにする。 私は窓際のテーブル席に鞄を置き、薄手のコートを壁に掛けた。 春の柔らかな光の落ちるテーブルの上に、私は鞄から取り出したノートを広げる。 文豪に憧れて買った万年筆のキャップを外し、しばらく悩んだあと、心を決めてこう書き出した。 『私はその人を常にマスターと呼んでいた。』