珈琲には砂糖をたっぷり入れて
僕たちは午後のカフェテラスにいる。 きっとここはパリだった。美しいアーチ型の窓から張り出した赤い屋根の下で、僕たちは無人の路地を見つめてティーカップを並べている。クリーム色の石畳をはさんで正面の店は色とりどりの花が並ぶ花屋で、斜めにある交差点では焼き栗の屋台がもくもくと煙に見立てたパーティクルを発していた。頭上では街路樹が緑の葉をきらめかせ、そのさらに上には白い絵の具をはけにつけて走らせたような雲の浮かぶ青空が広がっている。ワールドのBGMはチェロが奏でるクラシックで、ボリュームが抑えられていた。まるで誰かが街頭で弾いているかのようだ。 「本当にパリにいるみたいだ」 彼はそんなことを言った。彼は僕のお砂糖相手だ。ほぼ同時期にヘッドマウントディスプレイを買ってVRChatをはじめたから、付き合って一年半になる。その間ぶつかり合ったり疎遠になったりすることもあったが、そのたびによく話し合って乗り越えてきた。自信をもって最愛のひとと言えるパートナーだ。普段のVRCではそれぞれ気まぐれに遊んでいるが、たまにこんなふうにinviteのインスタンスで待ち合わせをし、ふたりきりの世界でデートをする。 「パリに行ったことあるんですか」 僕が問うと、彼が頷いた。彼の頭から伸びる大きなリボンが、たおやかに揺れる。 「ああ。新婚旅行でね。実際の通りはゴミだらけで汚かったけれど、街並みや雰囲気はこんな感じだった。旅はいいよ。そこに生きているひとびとの当たり前が垣間見える」 そう、と僕はほとんどため息のように答える。僕は彼がそう答えることを予想すべきだった。平和な日常の中、ときどき背後から刺されるように、彼と僕との差を思い知らされることがある。彼はきちんとした奥さんのいる社会人。僕は金も才能もないただの学生。どうして彼が僕といてくれるのかも分からない。そんなこと、怖くて聞けやしない。けれども、それを聞いたら、彼が優しい声で、彼にとって真実であることを告げてくれることも知っている。 その優しさが、怖かった。 「いつか一緒に来たいね」 彼が笑顔で言ったので、僕はしばし沈黙してしまった。 「そんなお金ありませんよ」 「私が出す。来年卒業だろ? お祝いに旅行に行かないか」 「そんなの……」 さすがに彼も黙った。そうしてしばらく僕の顔を見つめていた。僕は何か言うべきだと思い、思考の糸口を探した。それを思いついたとき、僕は彼の反応など考えず、すがるように口にしていた。 「もしも生まれ変わったら、僕と一緒になってくれますか」 「来世なんてありはしないよ」 彼は穏やかな声で言った。いつも通り、本でも読み上げるようなトーンだった。 「この肉体の終わりが私たちの意識の終わりなんだ。その先はない。今ある望みは今生のうちに叶えるしかない」 「でも、あなたには奥さんがいて」 彼は一瞬遅れて、驚いた表情をした。彼はくつくつと笑い、僕を薄目で見た。 「君は私を抱きたいの?」 「そうじゃない」 立ち上がり、僕は彼に迫った。彼は相変わらず澄んだ瞳で僕を見上げている。 「あなたのことがいちばん大切で、あなたにも僕のことをいちばん大切だと思ってほしくて、でもその確かめ方が分からないんです。男女なら体を重ねられるのに、僕たちは……」 「ゲイじゃない。でも、それしかないことを君は知っている。感情の発露の仕方が分からない。だからもしもに、夢を見ようとする」 彼は何でもないことのように淡々と言った。そう、これは彼にとって何でもないことなのだ。そのことがたまらなく悲しい。彼が突き付けた現実よりも、僕は彼の透徹としたまなざしが、憎い。 「ねぇ君、よく聞いて」 彼の手が僕の手に伸びる。僕の胸の前で二人の両手が重なる。それぞれの指のポリゴンが貫通しあうのを、僕は見下ろしていた。 「君と私の関係はVRChatの中でしか育まれない限定的なものだ。リアルでは特別な友人に留まるだろう。でも、それがなんだと言うんだい? 私は私にとって最も価値のあるものを知っている。それは肉体の接触には依存しない。セックスは過程のひとつであって本質ではない。私はね、君のきれいな心が好きなんだよ」 ここがリアルなら、僕の涙が彼の手の甲に落ちただろうか。血色のいい少女の手が僕の手を撫でる。 「この関係に終わりが来るとしたら、去るのは君のほうだと思っているよ」 「ひどい」 僕はぱっと手を離した。思わずコントローラーを握りしめる。 「どうしてそんなこと言うんですか。僕はいつまでもあなたのことが好きなのに」 はは、と声を上げて彼が笑った。空虚なその響きが、明るいBGMと不協和音を奏でる。 「私も、いつまでも君のことが好きだよ」 そんなさみしそうな声で言われたら、怒りの行き場がなくなってしまう。僕は脱力して、背後のベッドに腰掛けた。ヘッドマウントディスプレイに映る世界では、彼と同じ目線の高さになる。彼は僕の心情を知ってか知らずか、整った顔を近づけてきた。僕にそれを拒むことはできない。目を閉じて、再び開ける。 「これが大人のキスよ、ってやつだね」 彼が誤魔化すように笑う。僕はすぐに許すのは癪なので、わざとつっけんどんに言う。 「帰らないし続きはないんでしょう」 「私の帰る場所は、いつでも、君だよ」 その家には奥さんが暮らしているのに? 僕に触れない手で今夜も彼女を抱くのに? 聞けなかった。この心地よい時間が終わるのを恐れたからではない。彼にとって世界はきれいで、僕は心のきれいな男の子で、そこになんの間違いも矛盾もないからだ。彼は僕の疑問に対する答えを持っている。彼は無謬だ。彼は無欠だ。けれども僕はそこに、追いつくことができない。僕は彼の正しい現実に沿うことができない。 僕には彼のほうが、夢を見ているように思える。 「きれいだね」 彼が遠くを見つめてにこやかに言った。僕も体をそちらに向ける。エッフェル塔の緩やかなカーブが目に入った。 「そうですね」 ヘッドマウントディスプレイの画面の外には、真っ暗な闇と乱雑に物の散らばった床が、どうしようもなく広がっていた。